inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

見えない人々

「福音と世界」という雑誌に「夜間中学 仲間とともに未来を開く学び」という記事が掲載された。妹が永年夜間中学教師として働いてきた関係から、私も少なからず夜間中学に関心をもってきたつもりだが、記事を読んで色々と気づかされたことが多い。
 前回のブログで「ハンナ・アーレント」という映画を取り上げ、ナチス戦犯・協力者達の罪は、「思索しなかった」ことではなく真実(今、何が行われているのか)に目を閉ざし見ようとしなかったことにあるのではないかと書いた。かつてユダヤ人達が人種的理由で収容所に送られ殺害されているという事実を、メディアに洗脳されたドイツ人達が「見ようとしない」「目を閉ざす」という罪を犯した。そのように、今は私達が社会的に困窮し圧迫され、孤独のままに放置されている人々の存在を「見ようとしない」「目を閉ざす」という罪を行っていないかと指摘されたように思う。
 まず私達は、国民は全員憲法で保障された義務教育を受けているはずだと思い込んでいる。しかし、名目上中学卒業とされていても、実際には家庭的事情や障害等のため学習の機会を得なかった人々が存在する。同記事には「見えない形で社会に沈み込むように存在している」とある。国がこれらの人々に目を向け、夜間中学の存在を認めたのはやっと2016年12月の議員立法、略称「義務教育機会確保法」によってであった。それまで、こうした人々の学習権は社会的には無視され、心ある人々の奉仕的な活動によってやっと支えられてきたのである。政府は経済効率を重視するばかりでなく、もっとこれらの人々に目を向け人権重視の方向に転換して貰いたい。だが、公だけでなく一人一人の私達も彼らを仲間として連帯する方向に意識を転換せねばと、今更ながら思う。
 一方、「学ぶ」ということは、知識の増加だけでなく「人との関わり」「仲間の発見」につながる行動である。人は、他者の働きかけを受けて他者の存在を認識し、同時にそれを受けている自分自身を自覚し自己認識を高めて行く、とこの記事は最後に述べている。引用された粕谷さんという障害者のスピーチは、広島で原爆死した障害者(障害者のことは誰も触れようとはしない)との連帯を訴えて非常に感動的である。ヤマユリ園の被害者達は未だに全員が実名公開されていないと聞く。障害者の存在はひた隠しされているのだ。私は最近、生きて現在交流する人間同士だけでなく、死者達(彼らも生者同様に神の前に存在している)との連帯を考えることが多い。人間は死者も生者も、連帯する兄弟姉妹であることを、粕谷さんは身を以て体験し語っているのである。
 学校はこのような人間の繋がりをも学習する場である。学校の存在がなければ、子供達は狭い色々の問題を抱えた家庭内の人間関係に閉じ込められてしまう。親が死んだり家族離散すれば、そのまま孤立する危険性が高いのである。貧困や困難に陥った時にも、社会的セイフティーネットを活用し相談する道も発見できない。このような危険に、在日朝鮮人はじめ最近増加している外国人労働者及びその子弟、登校拒否や不登校の子供達がさらされている。昼間の正規中学に通えない人々の為に、夜間中学の果たす役割は大きい。同時に他人事ごとでなく、困窮にある人達に目を向け、彼らに連帯し手を差し伸べることをしないならば、私達自身が孤独におちいり孤立してしまうと自戒した。
 同じ雑誌の「今を生きるみことば」で、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、私はあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)を取り上げている。私は、この筆者が「炊き出しの列に並ぶイエス」に共感する感覚にはイマイチついて行けない。イエスは施す方であって、施しを受ける方ではないからである。だが、神は「高きにあって、低き者を顧みられる方」であり、困窮する人間に連帯して乙女マリアより生まれ、人間イエスとなって下さった。御降誕を祝うクリスマスを迎え、もう一度、商業ベースに乗せられたお祝いではなく、困窮する仲間に目を向けるクリスマスであるべきことを、夜間中学の問題を取り上げたこの記事から学ぶことができ、感謝している。
 

映画「ハンナ・アーレント」

 ナチスユダヤ人殺戮は、21世紀に入っても人間にとって恐るべき悪の可能性の実例である。最も恐ろしく思えるのは、それを実行したドイツ人達が当時の時点で悪と思わなかったかもしくは罪の意識が殆どなかったことである。

 アイヒマン裁判で被告は、自分は上からの命令を忠実に実行したまでであり、自分には罪がないと主張した。ユダヤ人の哲学者で、フランスの収容所から脱走してアメリカに亡命した経験のあるハンナ・アーレントが、この裁判の傍聴記録を雑誌「ニューヨーカー」に連載した。それが「エルサレムアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」という著作になっている。その中で、アイヒマンが(リチャード三世のような)悪の権化ではなくむしろ凡庸な小役人に見えること、また当のユダヤ人の中にも仕方なくではあったがナチスの大量殺戮に協力せざるを得なかった者がいたこと等を報告している。これが、当時の大衆というかユダヤ人社会に大きな反感を呼び、大学での教授職を失いそうになるまでになった。この映画は、その事件前後の彼女を取り上げている。

 彼女はハイデッカー(有名な哲学者で、ナチス党員であった)の愛弟子であり、若い頃には愛人関係があったと言われている。だから彼がナチスに傾いたことは、彼女にとって他人事ではない大きな問題として捉えられたであろう。映画でも、ハイデッカーの講義を聴いて、思索と情熱が合体しうることを知り感動する場面や、戦後再会しての交流などが回想シーンとして出てくる。だから、ナチス党員やその協力者を一方的に悪の権化や怪物として断罪するよりも、何故彼らがこれほどの前代未聞の悪を平然と為し得たかを解明することが、まず第一の関心事であったのだろう。

 傍聴記録連載に対する反感が高まり、大学は辞職を勧告する。しかし彼女はそれを拒絶し、反論の特別講義を行う。「彼(アイヒマン)は人間であることの資格である『思索する』ことを停止した。思索し、善悪の倫理を決断し、それを自分の行動に反映させることを怠ったことが罪である。しかしそれは法制上の罪ではなく、より深い根源的なものに対する罪であって、それを断罪する側の人間にも悪について一定の思索と決断が要求される」といった内容である。学生は大喝采で彼女の思索を受け入れた。だが、大学時代からの親友であり哲学者でもあるハンス・ヨナスもこの講義を聴いており、彼女を傲慢・冷徹として背を向けて去って行った。

 私は彼女の著書も読んでいないし、たまたまレンタルショップで借り出したDVDを見ただけなので、まともな感想を書くことはできない。確かに、彼女の講義は思索することについての信念が感じられてそれなりに感動的ではある。だが、ナチスに傾いたことは単に思索を怠ったことであろうか。真実(今、何が行われているのか)に目を背け見ようとしない不誠実さの方がより大きな原因だったのではないだろうか。ハイデッカーほどの哲学者が思索しなかった筈はない。自分の好む方向にのみ、思索した結果ではないのか。だから、彼女が自分の思索と信念を世評を気にせずに主張する勇気と誠実は尊敬するけれども、何か足りないついて行けないものを感じた。思索というものは、立場や感情によって動かされるものである。理性が必ずしも正しい判断を為し得ないということも、人間を考える上で大切なものではないかと思った。

映画「家なき子」

 新聞の映画評欄で上記作品が公開されたことを知り、思い切って久しぶりに映画館に行ってみた。エビスガーデンシネマは、平日の昼間のせいもあるかと思うがガラガラで、ソーシャルディスタンスの心配どころか、私の座席の列には私一人、ほか誰も座っていない列もあると言う次第で、なかなか個性的な映画上映が評判のこの映画館の経営を心配してしまった。

 「家なき子」の原作者エクトール・マロは、19世紀末フランス文学者で、改良的社会主義者というか、エンゲルスが批判している空想的社会主義者であり、経営者や良心的人間の努力で社会を変革し、底辺の被抑圧者達を解放すべきであるという考えの人であったようだ。社会主義理論はともかく、最も弱い立場の子供達が、社会の矛盾や貧しさ、不正義に苦しみながら前向きにけなげに生き抜く様を描いて、感動を与えている。

家なき子」は捨て子だった少年が、養母と別れ大道芸人に引き取られ、流浪の生活の中で様々の冒険をし、遂に生母と巡り会う迄の物語であり、貧しい農民や小商工業者の生活、大道芸人としての放浪の苦しみ、大都会で孤児達を利用する泥棒組織との戦いなどが描かれていて、冒険小説としても非常に面白い。姉妹編の「家なき娘」(ペリーヌ物語として、アニメ化され、亡くなった夫も珍しく面白がって見ていた)は、インド人の母とフランス人の父の間に生まれた娘ペリーヌが、孤児となり、人種偏見に凝り固まって母を認めようとしなかった祖父を訪ねて危難の旅をし、最初は祖父の経営する会社の女工となり、息子を失って悲しみに暮れる祖父に次第に近づき、秘書となり、人柄と有能さを認められてはじめて孫娘であることを明かすという話である。こちらは、女の子が主人公であるから冒険と言っても、「家なき子」ほどのスケールはないが、どちらも、人間にされるがままの動物への情愛や共感が溢れていて、良質の児童文学であり社会的正義へ目を開かせてくれる。「家なき子」を実写版でどう映画化されたかたのしみであった。

 映画が始まった。雷鳴とどろく嵐の夜である。四階建ての広壮な邸宅にも激しい風雨が吹き付け、その一室で寝ていた少年は眠れなくなってそっと起き出してしまう。階下の台所に忍び込む様を、階段の上から一人の老人が見ていた。老人も下におり、少年にお茶を入れてあげて、暖炉の側で昔語りを始める。

 レミという10歳になる少年が、おっかさんと二人でフランスの田舎に住んでいたんだよ。近所に友達もおらず、少年は淋しくなるとたった一頭いる乳牛の腹に顔を寄せて、歌を歌って自分を慰めたんだ。その歌はね、誰に教えて貰ったわけではなく。自然に自分の心の中から湧き出してくる歌だった。父親はいつもパリに出稼ぎに出ていて、レミは顔も知らなかった。ところが、その父が事故に遭い不具の身になったという知らせが入り、その治療と故郷に戻る費用を捻出するため乳牛を得る羽目になった。父親が戻りレミを見るなり、「この捨て子をまだ育てていたのか!」とおっかさんを怒鳴った。レミは捨て子で、高価な産着を着せられていたのでもしかしたら礼金が貰えると思って育てていたのだ。不具の男とその妻では、これ以上捨て子を育てる余裕がない。レミは孤児院に入れられることになった。だが、養母との別れに泣くレミは逃げだし、村人に捕まってしまう。そこに通りかかった大道芸人の親方ヴィタリスが、金を払ってレミを引き取ることになる。孤児院か親方との旅かどちらしかない。レミは大道芸人になる決心をする。

 ヴィタリス親方はいい人で、レミに読み書きや楽譜を教えてくれた。実は、彼はレミの歌を聞いて、その才能に惚れ込んでいたのだ。レミの心から湧いてくる歌を楽譜化し肌身離さず持っているように言う。名犬カピと猿の曲芸だけでなく、レミの歌声も一座の芸となった。田舎の放浪では野宿でのオオカミや寒さや飢えとの戦いがある。生きるだけでも毎日が冒険であった。やっと町が近くなり、運河を船で旅する金持ちに余興で雇われた。不具の少女リーズとその母親である。レミはリーズと仲良しになった。ところが、親方が身元不詳者として警察に拘束されてしまう。親方が警察にいる間、レミと動物たちはリーズと母親に引き取られていた。警察から親方が戻ると、リーズの母親は親方にレミを引き取りたいと言う。リーズの友達として、成長すればリーズの執事に取り立ててあげる。その方が、あなたといるより安全で平和に暮らせるでしょう、と言うのである。しかし親方は言う「それではレミはいつまでも召使い階級でしょう。私はあの子を、いずれリーズに求婚できるほどの名だたる音楽家にしてやりたいのです」。

 彼は実は、ヨーロッパ中に名高いバイオリン演奏家であった。ところが上流サロンに入り浸り、帰りが遅い彼を幼い息子が灯火をつけて待っていた。その灯火から火事になり、彼は一度に妻子を亡くしてしまったのだ。その事件以降、親方はバイオリンを捨て、世捨て人として大道芸人になったのである。リーズ親子と別れ、大道芸人としての放浪はやはり厳しかった。野宿で猿が肺炎になり、その治療のためヴィタリスは仕方なくホテルの客にバイオリン演奏を披露する。演奏に感動したある音楽家が、「昔、ある音楽家の名演を聞いたことがきっかけで、私は音楽家になりました。不幸な事故で、世を避けたと聞いたその方を、私は尊敬しております」といって、大枚を払ってくれるということもあったが、猿はやはり死んでしまう。一座は演芸の続行が困難となった。

 旅の途中、猛吹雪に遭い、親方はレミをかばって凍死。レミとカピだけが助け出される。しかし、レミが肌身離さず持って居た「レミの心の歌」の楽譜から、レミの本当の身元が知れる。イギリスの伯爵家の行方知れずの長男であったのだ。母親が歌って聞かせたオリジナルな子守歌が「レミの心の歌」の正体であったのである。伯爵家の跡取りとなったレミは親方の墓を建て、養母に新しい乳牛をプレゼントした。そして、長じてヨーロッパ中に名だたる歌手として活躍したのであった。

 老人の長い昔語りは終わった。嵐に眠れなかった大勢の子供達が取り囲んでいる。いつの間にか空が明るくなっていた。「もうお休み子供達」と老人はいい、子供達は「お休み、バルブラン様」と挨拶してベッドに向かう。老人も連れ合いの眠るベッドに入り、「おやすみ、リーズ」と挨拶する。

 朝の邸宅が映し出される。その表札は、「ヴィタリス孤児院」であった。

 以上、すっかりネタバレ。原作とはちょっと違う作品になっていた。社会的側面は随分そぎ落とされ、少年の音楽の才能をめぐる失意の音楽家の人間回復の物語になっている。悪党との戦いや、親方を失ったレミ一座の活躍も省かれている。だが、よりロマンチックで温かいメルヘンになっており、1時間半ほどの上映時間内ではよくまとまったヒューマンドラマとなっていて、好感を覚えた。

 

 

 

亀によせて

 松本清張の「砂の器」に、亀田という地名が出てくる。亀のつく地名はすごい多い。かくいう私の住まいもそうで、街頭は亀甲モチーフ、街角には美しくもない亀の像が沢山置いてある。なんでこんなに「亀」は人気なんだろうか。

 人名や屋号にも、最近はともかく少し昔まで「亀」がつくものは多い。沖縄の瀬長亀次郎氏とか、日本画家の小倉遊亀など、枚挙に暇がない。吉兆を呼ぶ動物とされているのだろう。

 しかし亀は、まず美しくない。そして鈍重で、泥まみれでのそのそ動き、憧れの対象になることはないといっていいだろう。だが、決して憎まれることもない。頭が良くてスマートだとは言えないが、いじめられたり馬鹿にされたりしても、あんまり感じないのだろうか大して気にする様子もない。怒りや復讐に駆られた「亀」なんて想像もつかない。概して平和的で穏やかな性格なのである。それでいて、「何とおっしゃる、ウサギさん。そんならお前と駆け競べ」と言うほど、とんでもなく楽天的で自信家である。ウサギどころかアキレスとだって、駆け競べしてやる気概を持っている。相手が本気で昼寝もせずに競争したら負けるに決まっているが、とにかく一心不乱に目的地にたどり着くという志操堅固さだけは誰にも負けない。

 だが、浦島太郎に助けられると、お礼に竜宮城の招待を仲立ちするという感謝も忘れない性格である。ことに瞠目に価するのは、陸上と打って変わった水中での泳ぎの優雅さである。いかにも楽しげに、悠々自在に水中を舞う。その姿は、ハワイ柄の代表的モチーフになるくらいである。

 そして、その甲羅は、神的ロゴスの産物と思える不思議な幾何学模様に飾られたり、美しい鼈甲で、その裏面には吉祥模様の青海波が現されていたりする。こうしてみると、神仏の加護あつい動物だと、昔の人は思ったことだろう。

 現代人にとっても、砂の中で孵ってまだ海の存在も知らない筈のウミガメの子が、不思議な感覚で海の方角を捉え、そちらに向かって過たず進んでいく本能は、驚異である。とはいえ、亀はありふれた庶民的動物で、そこらの池でのんびり甲羅干ししたりする姿をよく見かける。丈夫で長生きである。

 宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩ではないが、「褒められもせず、苦にもされず」いつも悠々とマイペースで暮らしている。また、「荷を負う」労苦を厭わず、争いを好まない点も似ている。「そういう者に、私はなりたい」とまでは言わない(言ってもなれないだろう)が、スマートさも美しさもなくても、その目立たない美徳とタフさに少しばかり尊敬を覚え、親しみを覚えるこの頃である。

 

さらぬ別れ

 伊勢物語に、昔男の母宮が、宮仕えに忙しくなかなか遇いにこられない男(業平)に「老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな」と和歌を送る段がある。男は泣き泣き「世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もと祈る人の子のため」と返した。

 「さらぬ」とは「避けられない」という意味だから、「さらぬ別れ」は死別である。母宮の和歌は「年老いて避けられない死別があるとおもうと いよいよあなたにお目にかかりたいです」という意味である。いかにも皇女らしくおっとりとした歌いぶりだが、長岡京にいて京都で宮仕えする男と久しく会えない淋しさが伝わってくる。

 こんな和歌を思い出したのは、最近コロナのせいでなかなか人に会えないからであろう。また、知り合いがコロナに感染したような症状があり、幸い陰性であったが、ヒヤリとしたせいでもある。陽性であったなら、身近でいつでも会えると思っていたその人と、お見舞いの面会も叶わず、万一の場合は死に目にも会えない羽目になってしまう。私自身かなり年配で「老いぬれば」の境地であるはずなのだが、まったく覚悟がなかったというのが本音である。

 また、いつでもその気になったら会えると思っていた友と、いつのまにかそれぞれの住まいや仕事の関係で何年も疎遠になって了うこともある。それに「いい方だな」と尊敬や親しみを感じていても、立場の違いでお付き合いが叶わない場合や、何かの事情で喧嘩別れしたような方でも時間がたってしまうとどうしてそんな別れ方をしたかと悔やむ場合もある。人との出会いは喜びであり、同時に別れの悲しみのもとでもある。

 コロナ禍で一人引きこもっていると、「一期一会」など言い古された言葉でかたづけられない人懐かしい思いが湧いてくる。それが、「老いぬれば」年配になったと言うことなのだろう。

 幸い私はクリスチャンで、地上で再会できなくとも天国での再会を期待することができる。葬式の賛美歌に「愛でにし者とやがて遇いなん」というフレーズがあり、再会の希望を歌ったものには違いないが、つい涙がこぼれてしまって余り好きではない。それよりも、「愛はいつまでも絶えることがない」という愛の賛歌の方が、愛は生死を超えて存続する事を思い、天国で愛が完成する希望を感じ慰められるのである。地上での出会いは、主の御許で完成するのであろう。アウグスティヌスの母モニカが逝去に際して(自分の墓でではなく)「主の祭壇の前でわたしを思い出しておくれ」と語ったこと、いかにもクリスチャンらしい幸いな言葉であると思う。

 しかし願わくば、早くコロナ禍がさり、死別して天国での再会を期待する前に、友と楽しく顔を合わせて集う機会の到来を祈りたい。

 ちなみに業平の返歌は心優しいが余り感心しない。できれば「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(崇徳院)くらいの元気のある和歌を返して差し上げれば母宮も心強かったのではないか。

 

田中芳樹「銀河英雄伝説」

 コロナ禍と引きこもりの孤独に耐えかね、レンタルショップで娯楽アニメを探してみた。娘のお勧めは「キングダム」というアニメだったが、人気のようで借り出されていて、仕方なく「銀河英雄伝説」(旧作)を試しに借り出した。
 これが実に面白かった。続きを借りに行ったら、また貸し出し中。そこで文庫本をゲットして全10巻、あっという間に読み終わってしまった。
 勿論、娯楽作品だけれど、歴史や社会体制についての作者の思索が登場人物に反映されており、読み応えのある小説であった。外伝もあるそうなので、機会があれば入手予定。
 あらすじを、ざっと紹介する。超未来、銀河全体に広がった人間社会は大きく3つの社会体制に分かれていた。皇帝を頂点とする貴族社会の銀河帝国、そこから自由を求めて脱出し民主共和制を採用する自由惑星同盟、帝国から自治を認められているフェザーン自治領である。帝国と同盟は互いに対立し、断続的戦争状態にある。フェザーンは外交なき二つの国家間の貿易を独占し利益を得ている。
 帝国軍に、若年で異例の出世を遂げた美貌の若者(主人公、ラインハルト)がいた。貴族最下層の身分でありながら皇帝の寵姫となったアンネローゼの引き立てによるものである。貴族軍人からは反感と蔑みの対象となっている。ラインハルトは、腐敗した貴族体制に反発を抱き、この帝国体制を覆し宇宙全体を支配する野望を抱いている。まず、同盟側(反乱軍と呼んでいる)との戦争に功績を挙げ、軍を掌握し、その力を元に、帝国を支配する。しかる後、同盟国を屈服させて宇宙全体を支配するとの計画である。彼のモデルは、おそらくアレキサンダー大王やナポレオンらしい。それだけの軍事的才能をもった人物として描かれている。
 ところが、同盟側にもラインハルトと同等の軍事的天才ヤン・ウィリーという人物がいた。彼は、その才能にも拘わらず野心を全く持っていない。歴史が大好きで、幼い頃、父に「どうしてルドルフ(銀河帝国創始者)なんて独裁者が生まれたのか?」と聞いた。父は「それはね、人民が自分の分の責任を果たさないで、優れた誰かに任せてしまったから何だよ」と言う。個人がそれぞれ社会に対して自分の責任を負うべきだ。これが彼の信念である。従って、衆愚政治に悩みつつも、民主主義者でしかあり得ないのである。
 ラインハルトが野望を遂げるまで、三つの体制の思惑がからみつつ、数々の戦闘が二人の天才の間に交わされ、それに絡んで大勢の脇役が様々の個性を見せつつ活躍する。
 全体の感想というわけにはいかないので、ラインハルトと姉アンネローゼ、ラインハルトの幼友達にして腹心のジークフリートキルヒアイスの関係にだけ触れてみたい。
 赤毛キルヒアイスは、平民の下級官僚の息子である。スポーツ万能、頭も悪くなく、友人に人望も厚い、両親の自慢の少年であった。彼の家の隣に廃屋に近い空き家があった。ある日、そこに尾羽打ち枯らした風体の男が入っていくのを見かけた。隣戸に引っ越して来た人がいるようだと両親につげると、貴族の端くれだそうだと言われた。貴族とは豪華な邸宅にすむ着飾った人達と思っていた彼は驚いたが、その日のうちに会った隣の姉弟の余りの美しさにやはり「貴族」と納得してしまう。
 豪奢な金髪の、彼と同年配の少年が隣の庭から、「やあ、僕、今日越してきたんだ。君は名前は何というの」と声をかけてきた。名乗ると「ジークフリートなんて俗な名前だ」と臆面もなく言い放ち、「だけど、キルヒアイスはいいね。僕、君をキルヒアイスと呼ぶよ」と云うのである。あっけにとられ返事もしないうちに、弟を探しに姉がやってきた。天使が舞い降りたかのような美少女である。弟が彼を紹介すると「じゃあ、ジークと読んでもいいかしら。ジーク、弟と仲良くしてね」と、木漏れ日のような微笑を浮かべて言われた。
 こんな美しい人に何か頼まれた事に感動し、言葉も出ず、ただ頷くばかりであった。それからは、この姉の頼みに応えることが心からの願いとなる。
 ところがラインハルトは、その美貌に反し不遜で好戦的な性格であった。学校の新入生に制裁を加えようとする上級生に呼び出され、キルヒアイスが助けに駆けつけた時には、すでに相手を石で殴りつけて敗走させ、悪びれもしないのであった。だが、相手の血が服についていることを指摘されると、姉を心配させると暗い顔をする。母を早く亡くし、生活破綻者の父しかいない姉弟は、互いに支え合い寄り添って生きていたのだ。キルヒアイスクは遊んでて公園の噴水に落ちたことにすれば良いと提案し、二人で実行する。アンネローゼに服を乾かして貰っている間、ラインハルトと同じ毛布にくるまり、ココアを御馳走になる。こうして親友となり、隣戸に入り浸るようになった。
 そんなある日、突然アンネローゼが皇帝に召され、隣戸は再び空き家になってしまう。少年は、姉弟との別れに泣いた。約1ヶ月後、軍幼年学校の制服を着たラインハルトが訪ねてた。「軍人になって、早く姉上を解放したいんだ。だけど、学校は嫌なやつばかりだ。君、僕と同じ学校にはいって一緒に軍人になろう」と言うのである。軍幼年学校はエリート校であり、入学できるのは貴族や金持ち市民の子息に限られていた。しかし、ラインハルトの熱望と後宮のアンネローゼの力により、入学が認められ、首席・次席の成績で卒業。それ以来、ラインハルトと離れたことがない。
 ラインハルトは、最愛の姉を皇帝に売った父を憎み、姉を奪った皇帝を憎み、傲慢な貴族達を憎み、そうした腐敗した帝国体制を覆す野心を抱くようになる。キルヒアイスも同じ心からそれに同調するが、野心ではなく正義と公平の大義からである。アンネローゼへの少年の日の憧れは、より深くより真剣なものへと成長していた。
 皇帝が逝去し、アンネローゼは弟を実家として戻ってきた。帝位争いが生じ、ラインハルトは帝国軍総司令官となり文官トップの貴族と組んで幼帝を擁立。それに異議を唱える有力貴族連合軍を賊軍として征伐、勝利する。だが、有力貴族が領地反乱を核爆発で弾圧する事を知りながら、それを阻止することを怠ってしまう。参謀長がそれを反貴族の宣伝材料とする事を勧め、迷ってしまったのである。
 辺境地域制圧を果たし、ラインハルトのもとに帰還したキルヒアイスがそれを批判すると、良心の引け目から激怒し、キルヒアイスを同志ではなく唯の部下として退ける。そして、そのまま戦勝式典に臨む。式典で、ラインハルトにテロの銃弾が向けられ、彼を身を以てかばってキルヒアイスは死ぬ。「ラインハルトさま、宇宙を手に入れて下さい。そして、アンネローゼさまに、ジーは昔の誓いを果たしましたと伝えて下さい」というのが最後の言葉であった。ラインハルトは闇に落ちる。
 キルヒアイスの死を知ったアンネローゼは、ラインハルトとの別居を望み、志達成まで互いに会うまいと告げる。ラインハルトが「キルヒアイスを愛しておられたのですか?」と尋ねると、無言の悲哀に満ちた表情で応える。
 さて、アンネローゼはキルヒアイスを愛していたのかどうか考えて見る。最初の出会いで、「弟と仲良くしてね」は、殆ど社交辞令である。しかし、廃人同様の父と5歳下の弟しかいない孤独な少女にとって、弟の友人は唯一の外からの光であり希望であっただろう。家に訪ねてきた彼と弟と三人で囲む夕食や、彼らをもてなす為にケーキを焼いく一時は、まるで幸福な家族のような笑顔溢れる時間であったに違いない。
 皇帝の妾として後宮に入ることも、愛する弟や父の生活を支える為と意味を見出し耐えたであろう。キルヒアイスを幼年学校に入学させたのも、ラインハルトに心を許せる友を与える為であった。弟を愛し支えること、それだけが彼女のささやかな生きがいであった。
 しかし、ジーク(彼女だけのキルヒアイスの呼び名)のラインハルトへの献身は、それを介する自分への献身であることを、聡明な彼女は気づいていた。弟とジークが帝国元帥とその副官となって訪ねてきた時、弟に用事を頼み、ジークと二人だけの機会を作り、彼女は云う。「弟は大きな才能があるの。でも、足の強さを誇って崖から飛び出してしまう羚羊のように、その才能の為に闇に飛び込んでしまう危うさがある。それを知っているのは、生まれたときから弟を知っているからなの。ジーク、どうか弟を見守り、そんなことから守って頂戴。あなた以外には、私には、こんなことをお願いできるひとは他にないから」。
 それは、ジーク唯一人を彼女が頼みとするという(例え弟ラインハルトでも)という告白であった。青年は感動をやっと抑えて「御意にしたがいます」と答える。
 男というものは、心から信頼され委ねられた時、最大の喜びと幸福を覚えるものである。キルヒアイスの最後の言葉「ジーは昔の誓いを果たしました」は、自分をアンネローゼだけの呼び名で云い、ラインハルトへの献身は実は彼女への献身であることを告白している。自分を部下扱いしたラインハルトへの恨みなど、少しもありはしない。自分に信頼してくれた彼女の信頼に応えることができて、彼は幸いな死を死んだのである。
 アンネローゼにとって、弟への愛と気遣いの裏にはジークへの愛と信頼があった。5歳年長、しかも後宮の女であった身である。自分からは望み得ないけれど、いつかは憧れを脱して、自分を女として求め、愛と保護を与える力強い男性に、ジークが成長することを夢見なかったとは言い切れないであろう。
 彼の死は、それを断ち切った。うちに隠した密やかなジークへの愛なしに、もはや弟ラインハルトを今まで通りの愛し方で愛することはできないのである。野心を達成し終えた時、弟もこの虚無に直面するであろう。彼女が味わっている虚無に、弟も直面した時、はじめて闇の中で二人になり互いを理解し合うことができるだろう。それが、弟との別居・別離の言葉でなのである。
 この小説には、様々な男女の関わりが出てくる。だが、アンネローゼの、弟への愛に隠したジークへの愛が、表だって表現されないだけもっとも哀切で心に残るものであった。 

上橋菜穂子「炎路を行く者」

 前回触れた、上橋菜穂子「精霊の守人」シリーズの番外編に「炎路を行く者」がある。守人シリーズの「蒼路の旅人」と「天と地の旅人」に登場する人物アラユタン・ヒュウゴの少年時代を取り上げた作品である。だが、これを発表すると、シリーズの主人公皇子チャグムを中心とする話の筋がずれてしまうので、シリーズ完結までお蔵入りにしていた作品だそうである。
 チャグムの祖国新ヨゴ国が属する北の大陸に、南の大国である「タルシュ帝国」の侵略の手が伸びようとしていた。タルシュ帝国とは、ローマやイスラム帝国を想起させる他国を侵略支配して世界帝国を目指す大国である。一代にして帝国の基礎を築いた皇帝は死を間近にして「北の大陸に、永遠の楽土が生まれる」というお告げを受けた。そこに入り得た者は、老いることなく百年以上生きることができるという。言わば桃源郷のようなものである。始皇帝が永遠の命を求めたように、人間の野心の行き着く先は似たようなものである。彼の二人の王子が、父の夢を叶え次代の帝位を受け継ぐべく、競って北の大陸侵攻を目指している。その手段として、チャグムの故国新ヨゴに傀儡政権を打ち立て、侵略の足場とするため、チャグムを攫ってタルシュ帝国に拉致する役目を果たしたのが、帝国密偵で上記作品の主人公であるアラユタン・ヒュウゴである。 彼は、帝国に侵攻され属国となったヨゴ国出身でありながら異民族支配の手先となったのである。
 しかし彼は、帝国の侵略に手を貸す一方、ひそかにチャグムに北の大陸の強国相互に同盟を結ばせる策を授ける。例え小国新ヨゴを陥落させても、容易に北大陸全体に侵攻させないためであり、同盟成立が新ヨゴ国陥落前であれば、援軍を送って新ヨゴ国から帝国軍を撃退させることも可能である。そうなれば帝国も北大陸侵略を思いとどまるであろう。
 彼の諜報網は他国だけでなく帝国内部にも張り巡らされており、帝国内部の矛盾が増大していることを感知していた。帝国は今や伸びきった革袋のようだ。他国侵攻を止め、内政を整えることに専心すべきあると、ヒュウゴは判断していた。その方向に動かすため、彼は密かに属国の官僚達の人心を掌握していたらしい。
 彼が仕える王子ラウルの宰相はタルシュ人であり、属国領民の心を読み切れていない。王子領内で小規模の反乱の兆しを見るや、彼は命がけで王子に直言し、その怒りをかう。だが、反乱の続発と北大陸同盟成立の報告が入り岐路に立たされた王子は、再び牢屋からヒュウゴを呼び戻すのである。
 以上は、守人シリーズでのヒュウゴの動きである。なぜ彼が、祖国の敵であったタルシュの密偵となったかを語るのが、今回取り上げるヒュウゴの少年時代の物語である。
  ヒュウゴは武人階級最高位の「帝の盾」つまり近衛兵の息子であった。タルシュ帝国は旧体制に忠誠心の厚い近衛兵は家族もろとも皆殺しにする。物語は「帝の盾」の家族が潜んでいた隠れ家をタルシュが襲ったところから始まる。十二・三歳だった少年ヒュウゴは母と妹を守ろうとして戦うがその間に母も妹も殺されてしまう。火を放たれ燃え上がる隠れ家から辛くも逃れたが、負傷して倒れたところを火事見物にきた平民の少女リュアンに救い出される。彼女は貧しい川漁師の娘で、父と二人で暮らす小屋に彼を連れて行く。父の漁師ヨアルは、「帝の盾」の家族の生き残りを匿う危険を知っても、傷ついた少年を追い出すなんて不人情は出来ない男であった。最下層の平民であったが、孤児となったヒュウゴの傷が癒えると、彼が自活できるように泊まり込みの酒場の下働きに職を世話してくれたのである。
 身分を失い最下層に転落したヒュウゴは、必死に環境の激変に耐える。だが、そうした環境に慣れて来ると、将来への展望がなにも見いだせない虚しさに苦しむようになる。そんな時、ふとしたきっかけで下町の少年達の喧嘩に巻き込まれた。武人たるべく育てられたヒュウゴは、その圧倒的な強さを思わず仲間に見せてしまった。それから喧嘩の強さを競う不良少年達の標的となり挑まれるようになった。彼自身、強敵と戦う暴力に陶酔するようになる。結果、瞬く間に下町の不良少年の首に君臨することになってしまう。人並み優れた頭脳と気力・胆力を持ちながら、それを活かす方向と希望が持てない。それが、彼をそんな道に追い込んだのである。
 ある日、そんな喧嘩沙汰にリュアンが巻き込まれそうになる。とっさに短剣を抜いて彼女を助け出そうとした瞬間、「そこまでにしろ!タルシュ警備隊が来る。」と事態を救ってくれた男がいた。この男を、数日後、不思議な縁で今度はヒュウゴが窮地から救う事件が起きる。
 ヒュウゴが給仕として働く料亭に、タルシュ兵がやってきた。調理人に何かを指示しているのを見かけたヒュウゴが見張っていると、調理人が腕に何か薬を入れているではないか。その腕を配れと指示された客は、なんと彼とリュアンを助けてくれた男であった。薬物が入っていることと、逃亡を任せて欲しい旨を男に伝え、配下の給仕仲間を指揮して男をタルシュ兵から逃すことに成功する。男とは、翌朝の再会を約束して別れた。
 なんと男はタルシュの密偵であり、タルシュ内部で二人の王子が争っておりその勢力争いが昨夜の事件であったと知らされる。「オウル・ザン=砂漠のネズミ」と称するその男は、ヒュウゴが喧嘩沙汰で示した度胸と思い切りの良さ、救出劇で見せた頭の回転の速さと行動力を見込んで、タルシュ密偵になることを勧誘する。彼自身がタルシュに滅ぼされた属国の出身であり、故国が属国となったのも王族内部の勢力争いからであった事を打ち明ける。国に対する忠義なんてあっけなく裏切られるものだ。自分自身に忠義であれとヒュウゴに言うのであった。
 タルシュに頭を下げるなど絶対に嫌だ。それに、自分自身に忠義を尽くすほどの自信もない。ヒュウゴが勧誘を断って店に戻ると、昨夜の騒動で自国の警察から調べが入っていた。警察の取り調べで、ヒュウゴは半殺しの目に遭う。タルシュ兵に頭を下げ、自国民をこんな目に遭わせる自国警察が堪らなかった。目を上げれば高台には宮殿や武人邸街が見えた。あそこにいる方々も保身や出世に汲々として、戦で酷い目にあった自国民を助けようとはしない。父がその為に死んだ忠義とは何だったのだ。
 宿舎に戻ると、リュアンが心配して待っていた。店から知らされたとのこと。手当をしながらリュアンは言う「ヒュウゴ、どうなったらあなたは幸せになれるの?」。「何でもいいんだ。自分の仕事が人の幸せにつながると思える仕事ならば…」。「店で一生懸命働いて、独立して大勢の人に仕事を与えると言う道ではだめなの?」
 ヒュウゴは、タルシュの支配という現体制を肯定し受け入れて、その中でのし上げる気に何としてもなれなかった。それでは、今の警察や高台に住む連中と同じじゃないか。
 リュアンはしばらく黙っていたが、やがて「降っても照っても、私らはここで生きるしかないんだから」といって帰って行った。
 そうだ、ここで生きるしかない。それでも少しでも、ヨアルやリュアンのような民が安心して暮らせるような途はないのか?その為になら、生命を賭けても働ける。今、ヒュウゴにはそれが見えなかった。だが、「場所を変えねば、見えない風景もある」と「砂漠のネズミ」に言われた事が思い出された。立場を変えてみよう、様々の立場から帝国内部や世界の風景を眺めて、もっとも良い方向を探ってもいいではないかという思いが湧いた。
 怒りを腹に抱えた不良少年は、こうして密偵となり、帝国内外の国民がもっとも幸せになる方向を念じつつ諜報活動に従事するようになる。
 サトクリフの名作「灯火を掲げて」を思わせるような小説であるけれど、大きな違いは「永遠の世界」を思わせる異界ナユグの存在であろう。少女リュアンは幼少時の臨死体験によってナユグに呑まれた存在である。それ以来声を失い、会話はナユグの生物である「首巻き魚=タラムー」を介してしかできない。タラムーが首に巻き付く相手にだけ語ることができるのである。実際には、亡くなった母と、ヒュウゴだけである。
 ナユグは死者の魂が帰ってゆく世界として描かれており、天国のような平和な世界である。リュアンは常にその世界を眺め、そこに憧れている。チャグムも遂にそこに安らぐことを願う。
 だが、ヒュウゴは現世に留まる人間である。ナユグの存在を感知しつつ、死を思うチャグムに「逃げるな!」と叫び、現世にあって苦難の道を切り開くことを勧める。そして守人シリーズの最後に、牢屋から引き出されたヒュウゴはラウル王子に言う。「永遠の楽土を、北の大陸に求めないで下さい。この帝国を永遠の楽土とするために働いて下さい。あなたなら、それができる!」。
 作者は、キリスト教主義学校の出身であると言う。ヒュウゴがナユグに逃げようとするチャグム等を批判するのは、安易に来世の天国を説くキリスト教への反発であろうか。しかしながら、現世を肯定しその中での成功や出世を願うのではなく、現世を少しでも変え、苦しむ民を平和に導こうとする願いは、チャグムやリュアンが眺め憧れる世界への眼差しがなければあり得ないのである。
 現実の世界は、この小説よりもっと複雑で難しい。だが、終りの日に到来するという神の国も、その種はこの地上に蒔かれたのであり、目に見えなくとも確実に地上に芽吹き成長していくと説かれていることを思った。