inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

メサイア第三部 キリスト再臨

 今年もまたクリスマスが近づいてきた。ここ数年、この時期になると掃除のアルバイト仲間とヘンデルの「メサイア」を聴きに行く。今年は私がチケットを買う当番で仲間と自分の席を確保した。

 メサイアは子供のころからなじみの曲で、クリスマスが近づくと聴く音楽だと思っていた。有名なハレルヤコーラスよりも、むしろ美しいソプラノ独唱「How beautiful are the feet of them that preach the grospel of peace.…」が好きだったことを思い出す。

 中学・高校と通ったミッションスクールで、毎年クリスマス礼拝にメサイアから抜粋した合唱が歌われるため、6年間、少しずつ何曲かを練習させてもらって、この曲がより身近なものとなった。卒業から何十年もたった今も、この曲を聴くとそのころを懐かしく思い出す。真摯な音楽に対する喜びと尊敬の気持ちを植え付けてくださった先生方にに心から感謝している。

 だが、夫を亡くした昨年、いつもの通り仲間と演奏会にいって、改めて第三部に心を打たれた。第一部は旧約の予言からキリスト降誕まで、第二部はキリストの受難と復活、そして昇天までであり、第二部の終わりにハレルヤコーラスが歌われる。ところが第三部は現在の私たちのキリスト待望(再臨待望)が主題となっている。

 よく葬式で朗読されるヨブ記「私は知る。私を贖う者は生きておられる。彼はついに(黄泉の)塵の上に立たれるであろう。私は肉を離れて、主を見るであろう」で第三部が始まる。それは、死を超えて神を信頼するヨブの信仰を表現しているが、ヨブ記では神ご自身が直接回答してくださることでヨブは満足した。だが、この歌詞では、ヨブの待望に応えるのは、「なぜなら、実際に、キリストは死者の中から復活され、眠りについた人たち(死者)の初穂となられたからです」(Ⅰコリント15:21~22)とキリストの復活という具体的な出来事である。これはパウロが、復活を否定する論敵(肉体の牢獄から魂が解放されることが救いと考える人々であったようだ)に反論した言葉である。だが私は、自分が信仰し待望する内容を改めて指摘された気がした。テレビのチコちゃんではないが「ぼーっと生きてんじゃないよ!しっかり(キリスト再臨を)待ち望め!」である。

 キリスト以外まだ誰も復活していない。だが、キリストの復活は人間が死の支配から解放されたという出来事なのだ。償われない死を死んだのは、ヒロシマナガサキアウシュビッツの死者たちだけではない。人間全体が罪と死の支配に苦しんでいる。身近な者の死を体験し、自分の生涯の終わりも視野に入ってきた今だからこそ、いっそう、キリストの義により希望が与えられたことを意識し感謝せねばと思った。

 音楽は、「終わりの日に、最後のラッパが鳴る時に、死者は復活し朽ちない者とされ、生者は朽ちない(死なない)者に変えられる」と歌っていく。「死は勝利に飲み込まれた」、「イエス・キリストによって勝利を賜る神に感謝しよう」と合唱される。そして「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できますか。…人を義としてくださるのは神なのです。」有名なロマ書8章をソプラノが歌って、最後の「Worthy is the Lamb that was slain.…」とアーメンコーラスになる。最後のコーラスは、旧約や新約の信仰者たち・亡き愛する者たち、私たちの死後も生きる人々と声を合わせるような気持ちで聴いた。

 しかし、その後もまだじたばたと生活は続く。年があけて来春には、孫が小学生になり、学童保育のお迎えをする「おばあちゃん」生活がはじまる。今年の「メサイア」演奏を、仲間と共にどう聞くのか楽しみである。

 

 

 

 

使徒パウロ5、伝道旅行とエルサレム教会への献金、ローマへの護送・殉教

伝道旅行とエルサレム教会への献金、ローマへの護送・殉教
 エルサレム・アンテオキア両教会は、ユダヤキリスト者としてそれぞれ、ユダヤ人・異邦人伝道を分担することで合意が成立した。だがパウロは、(アンテオキア教会ではなく)自分こそがエルサレム教会と分担して異邦人伝道を担う使命があるとの自覚のもと、独立した伝道活動を開始した。ローマの州単位に拠点となる教会を設立し、第二回伝道旅行中に、すでにローマを拠点として帝国西半分を目指す計画を抱いたようである。
 彼は、まだ教会が設立されていない場所を選んで宣教し、主に異邦人を中心とする「ユダヤ人も異邦人もない」教会を設立していった。
 だが一方、イエスの死と復活の出来事と結びついたエルサレム原始教会と、設立した諸教会とを結びつけることも重要であった。それは、イスラエルキリスト教の連続性を確保するためであった。しかし、ユダヤ人たちには偏狭な愛国心から律法重視熱が高まっており、律法からの解放を唱える者を迫害する機運が起きていた。同時に、ローマ帝国ではキリスト教弾圧も始まっていた。パウロエルサレム教会への献金は、こうした情勢からすんなりと受け取られるのが困難であった。主の兄弟ヤコブは、この困難を回避するためパウロ個人としての敬虔な行為(ナジル人への喜捨)を勧めた。パウロが神殿でそれを行おうとしたところ、律法からの解放を唱えるキリスト教伝道者だと彼を知るディアスポラユダヤ人に見とがめられ、騒動となり、ローマ軍に逮捕され、カイザリアで囚人となってしまう。献金は失敗。彼もローマに上訴し、ローマで殉教する。
 以後、年表形式で伝道旅行とその間に執筆された書簡をまとめた。それぞれの書簡を読む上で、参考にしたい。これでパウロの生涯と活動のまとめを一応終える。
(49年)アンテオキアの衝突後まもなく出発、キリキアの峡門経由タウルス山脈を越え、アナトリア高原を西に
①デルベ、ルステラ(第一回伝道で訪問)を再訪、ルステラからはテモテが同行
②フリュギア・ガラテア地方(ガラテヤ教会設立…病気のため余儀なく滞在)
③港町トロアス(マケドニア人が伝道を懇願する夢を見て、マケドニアに向かう)
⓸ピリピ教会設立、官憲に捕縛されてテサロニケに去る
⓹テサロニケ教会(異教徒出身者が中心)設立、ピリピから何度か献金あり、また、自ら働いた。迫害を受けペレアに逃げる。ぺレアでも迫害され、アテネに。そこから、テモテをテサロニケに派遣。アテネ伝道は失敗し。コリントへ
(50年秋)コリント着、18ケ月滞在。(総督ガリオ)、Ⅰテサロニケ書執筆、
ローマを追われてきたアクラ・プリスキラ夫妻と出会い、彼らの家に滞在。
⑥コリント教会設立、ユダヤ教の会堂司クリスポ・ソステネ等も入信し、ある程度ユダヤ人にも浸透。だが、教会外ユダヤ人から総督ガイオに突き出される。
(52年春)コリントからエペソ経由、エルサレムへ。設立した上記6教会とエルサレムとの結びつきを図るが、失敗。アンテオキアに戻る。
第三回伝道旅行
(53年)アンテオキアからガラテア・フリュギア経由エペソへ
 (53年秋から55年)エペソ滞在(約二年)エペソ教会設立 
          Ⅰコリント書、ガラテア書執筆
     入獄、ピリピ4:10以下、ピリピ1~2章、ピレモン書執筆
          コリント教会との関係悪化、
       Ⅱコリント1:3~21、2:14~6:13、7:2~4執筆
     コリント「中間」訪問(不当な仕打ち受ける)、
       Ⅱコリント10~13章執筆
(55年)マケドニアへ。コリント教会との関係好転、
       Ⅱコリント1:12~2:13、7:5~16、8~9、執筆
(55~56年)コリントへ、3ケ月滞在。ここを拠点としてエルサレム献金を集結。
     ロマ16章(エペソ教会あて)、ピリピ3章、ロマ書執筆
(56年春)献金を携えてエルサレムへ。逮捕される。
(56~58年夏)カイザリアで未決囚(総督はフェリクス、その後フェストゥス)
(58年秋)皇帝に上訴、ローマに護送
(59年頃?)処刑

使徒パウロ4 アンテオキアの衝突と独立した伝道の再開

使徒パウロ4 アンテオキアの衝突と独立した伝道の再開

 映画を見に行く前のおさらいのつもりで始めたパウロの生涯と活動の勉強は、今までの不勉強がたたってえらくヘビーな作業となってきた。大体、日曜学校以来、使徒行伝そのままのストーリーが頭にあるので、参考にしているボルンカムや佐竹明先生の著書を読みこなすだけで大変である。だが、長年パウロの書簡を読んでいながら、彼の生涯と活動を全体的に学んだことがなかったから、一応自分なりにまとめてみたい。
①アンテオキアの衝突(49年春)
 エルサエム使徒会議で異邦人キリスト者に割礼を受けさせる必要はないという結論が出て、アンテオキア教会では異邦人伝道に一層の熱が入り、異邦人とユダヤ人が神の国の祝宴の意味をもつ共同の食事まで行われるようになった。使徒ペテロが来訪し、もともと律法から自由な考えを持っていた彼はこれに参加した。
 ところが、エルサレム教会から(主の兄弟ヤコブのもとから)人々がやってくると、ペテロは次第にこの食事に参加しないようになった。パウロにとっては「ユダヤ人も異邦人も」福音のもとで平等であることが信仰の原則であったから、彼はペテロのこの行いを信条に反して人間的なものに屈する偽行だと非難した。だが、あろうことか、律法からの自由を信じるバルナバまでそれに同調するようになり、異邦人キリスト者は取り残され共同の食事は中止となった。パウロは、アンテオキア教会で孤立する立場となり、もはや教会から派遣されるかたちではなく、最初からそうであったように、独立した伝道活動を行う決断をした。そして、彼に従ったユダヤキリスト者シラスを伴って第二回伝道旅行に出発する。
 ペテロやバルナバユダヤキリスト者らがこういう行動をとったのは、エルサレムの権威に屈しただけでなく、ユダヤ人に高まっていた愛国熱が熱狂的律法遵守の形となり、教会のユダヤ人が異邦人と共同の食事という律法軽視をしているいう噂がたてば、他のユダヤ人教会まで迫害される恐れがあったからである。だが、異邦人・ユダヤ人信徒が分離することはアンテオキア教会にとっても困った事態である。そこで、エルサレム教会と連絡をとり「偶像に供えた食物、および血抜きをしない肉を避ける」という律法と抵触しない形で異邦人との共同の食事を再開することにした。これが、「使徒教令」でありアンテオキア教会にとっては「使徒会議」に付属するものと受け取られた。ただし、これはパウロの関与しないエルサレム・アンテオキア両教会の合意である。第二回伝道旅行を終えたパウロがアンテオキアに戻ったのも、こうして共同の食事が再開されたからであった。
 アンテオキア衝突以後は、パウロは経済的にも人間的にも独立した伝道活動を行うようになった。遺された彼の書簡は、すべてこれ以後の第2回及び第3回伝道旅行中のものである。

使徒パウロ3 第一回エルサレム上京からアンテオキアを中心とする活動時代 

第一回エルサレム上京から使徒会議と第一回伝道旅行(35~48年頃)

①第一回エルサレム上京(35年頃)
 ダマスコでナバテア王代官から逃れた直後、パウロは「ケパ(ペテロ)と近づきになるために」エルサレムに上京し、ケパのもとで足掛け15日滞在し、その間主の兄弟ヤコブにもあったと述べている(ガラテヤ1:18)。
 何のための上京であったのか。パウロの回心は、律法によらない新しい義の道が開けたことをキリストから啓示されたと確信した。「人々によってでも、人によってでもなく、イエス・キリストによって召された」使徒であるけれども、同じくキリストによって召されたイエスのご生涯と復活の目撃証人である使徒達、なかでも原始教会の柱である使徒ペテロと会い、同じ福音を受けたことを確認したかったのではないか。そしてペテロから信仰告白定型文「キリストが、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、…三日目によみがえったこと」「①ケパに…、②次に12人に…。③そののち五百人以上の兄弟たちに、同時に…。⓸…そののち、ヤコブに…、⓹次にすべての使徒たちに現れ」(Ⅰコリント15:3以下)の信仰告白定型文を「受けた」と考えられる。そして顕現リストの最後に⑥パウロ自身への顕現を付け加えることが合意された。だから、ペテロは、パウロが受けてすでに宣べ伝えている福音が、自分達が宣べ伝えている福音と同一であることを認め、かつパウロへの顕現を信仰告白定型文に付け加えたのである。
 教会の迫害者であったころからすでに優秀な異邦人伝道者であり、「同国人で同年輩の誰よりもユダヤ教に精進していた」パウロは、同一の福音であることを互いに認め合った以上、優秀なヘレニストキリスト者たちの去った、素朴な庶民上がりのヘブライストキリスト者を中心としたエルサレム教会に、これ以上とどまる必要はなかった。また、ステパノらヘレニストを迫害した当時のエルサレム情勢から、滞在はパウロだけでなくエルサレム教会にとっても危険であったことだろう。

②アンテオキア教会を中心とする活動(35年~48年頃)
 パウロエルサレムを去り、遠隔の(故郷タルソのある)キリキア地方、およびシリア地方を中心として、単独の伝道活動を再開した。伝道は成功をおさめ、かつての迫害者がキリストを宣べ伝えていると聞いて、エルサレムキリスト者達は神を賛美した。
 ところでシリアの中心都市アンテオキアには、エルサレムを追われたヘレニストキリスト者バルナバらが創設した教会が存在した。異邦人を多く受け入れ、大都市であったから迫害を受けることもなく、盛んに宣教活動を行っていた。この教会の中心人物のひとりバルナバは、パウロの噂を聞いて、彼に会い、伝道者としてアンテオキア教会に連れてきた。それまで、一匹狼で単独で活動していたパウロは、以後、アンテオキア教会から派遣される形で(後ろ盾を得て)活動できるようになった。パウロの働きは目覚ましく、アンテオキアでは、キリスト者たちはユダヤ人・異教徒とならぶ第三の勢力として「クリスチャン=キリスト者」と呼ばれるまでになった。
  一方、ユダヤ国内ではローマ支配からの解放を目指す偏狭な愛国熱が高まり、律法をおろそかにするような気配があれば、リンチや迫害に遭うような情勢であり、十二使徒の一人であるヤコブは殺害され、ペテロも捕縛された。天使の助けにより脱獄したが、ペテロはもはやエルサレムにとどまることはできず、教会指導を主の兄弟ヤコブに託して各地で伝道者として活動するようになった。

エルサレム使徒会議と第一回伝道旅行(48年頃)
 このような情勢は、教会がユダヤ国外では律法を軽視していると知られれば、エルサレム原始教会まで迫害される可能性さえあった。律法を重んじるエルサレム教会の一部の者たちは、異邦人入信者に割礼を受けさせよとアンテオキア教会に要求してきた。異邦人伝道の中心地となっていたアンテオキア教会にとって、従来および今後の宣教にかかわる重大問題であったから、これについてエルサレム側と話し合うため、パウロバルナバエルサレムに派遣した。これが、エルサレム使徒会議である。
 これは、キリスト教が世界的視野をもつか、ユダヤ教内部にとどまるかの瀬戸際問題であったから、パウロはわざわざ異邦人キリスト者テトスを同伴し、瞬時もテトスへの割礼強要に屈せず、エルサレム側を説得した。エルサレム原始教会に異邦人を割礼なしで受け入れるさせるまでは情勢からみて困難であった。だが異邦人伝道を最初に開始したペテロ(会議のためエルサレムに来た)の協力もあり、結局、①異邦人伝道は従来通りパウロらアンテオキア側が、ユダヤ人伝道はペテロを中心にエルサレム側がと、宣教の役割分担を行う、②ただし異邦人側は、信仰の一致とエルサレム側から受けた福音の感謝のしるしとしてエルサレム原始教会に献金する、という妥協が成立した。
 これは受け取り方で、ユダヤキリスト者は律法重視するともとれる。だが、パウロとしては、異邦人伝道に一層熱が入ったことであろう。直後から、アンテオキアでは異邦人・ユダヤ人の共同の食事まで行われるようになった。パウロバルナバは、アンテオキア教会から派遣され、バルナバの故郷キプロス島を含む第一回伝道旅行を行う。

 

使徒パウロ2 回心と召命

教会の迫害者-回心と召命
 使徒行伝によれば、エルサレム原始教会内部に、ヘレニスト(ギリシャ語を母国語とするディアスポラユダヤ人)とヘブライスト(アラム語を母国語とするパレスチナユダヤ人)の対立が起きたとある。これは、実は物資配給問題ではなく、律法から自由なヘレニストキリスト者(ステパノ・ピリポら)と律法を重視する伝統的ユダヤキリスト者の、信仰理解における対立であった。律法重視のヘブライストキリスト者は迫害を受けなかったが、ステパノのユダヤ人弾劾演説を機に律法から自由なヘレニストキリスト者に対する迫害が起こり、ヘレニストはユダヤから逃げ出さざるを得なかった。その結果、シリア地方ほか異邦人の地にヘレニスト的キリスト教(律法から自由な)が伝播した。もちろん、これは各地のシナゴーグを中心に宣教された。
 パウロは「割礼を宣べ伝える」熱狂的なパリサイ派ユダヤ教伝道者であった。だから、律法から自由なヘレニスト的キリスト教は彼の伝道活動を足許から切り崩すものであった。シナゴーグにおいて、キリスト者イスラエルの信仰伝統に背くものとして迫害したのは当然である。ただし、殺害までの権限はユダヤ教団になく、現在でもイスラム国家でみられるむち打ちなどで罰したものと思われる。パウロ自身、キリスト者となってから3度もユダヤ人から(シナゴーグで)39回のむち打ちをうけている。
 キリスト者弾圧の意図をもってダマスコ周辺にいた時、突然、予想もしない復活のイエス顕現という、いわゆる幻視体験をする。印象的なのは彼は生前のイエスを知らないから、顕現されたイエスに「あなたはどなたですか」と尋ねることである。12使徒らとはまったく違う思いがけなさであったろう。この体験により、今まで彼が宣べ伝えていた、かつて出エジプト・シナイ契約という形で人間に介入された唯一の生ける神が、イエス派遣という行動によって最後決定的に歴史に介入されたことを悟る。そして、アナニアという人物の関与によって、キリスト教へと180度の転換をした。アナニアの教会から基本的な信仰告白を伝えられたであろう。
 ユダヤ民族の父祖伝来の、彼が命がけで勝ち取ろうとしてきた律法遵守による義、いわば人間主体の義ではなく、神が主体となって、キリストを信ずる信仰によって与えられる義=恩寵による義の道が今や開かれたのである!パウロのそれまでの一神教伝道は一変した。律法(シナイ契約)から解放された恩寵による義=キリスト・イエスを信ずる信仰による義(新しい契約)を宣べ伝えねばならない。パウロの回心は単に個人的な救いではない。割礼を受けユダヤ人になることによってではなく、ありのままの人間全体に打ち開かれた救いの道を宣べ伝えるために、預言者エレミアが受けたように「母の胎から彼を選び分かった」神からの召命の体験であった。これはイエスの死と復活の約2年後、紀元33年頃とされる。
 パウロは直ちに「骨肉に相談もせず」アラビア(ペトラを中心とするナバテア王国。当時は商業都市として栄えていた。)伝道に出発した。足掛け3年滞在し、ナバテア王の弾圧を受けてダマスコに戻る。そこでも彼はナバテア王代官に逮捕されそうになり、城壁を籠で釣り降ろされて逃れた。ナバテア王はユダヤヘロデ王と仲が悪かったが、それだけでなく、あまり熱心な伝道がユダヤ人及び多神教の地域住民の憤激を招いたのではないだろうか。教会設立までは至っていない。

 

使徒パウロ1

 11月に「パウロ~愛と赦しの物語~」という映画が封切りになるとのこと、教会にポスターが貼ってあった。教会の仲間と一緒に見に行くことになったので、使徒パウロの伝記をおさらいしてみようと思う。
 夫の蔵書の中で参考になりそうなものを探し、ボルンカム「パウローその生涯と使信」を見つけた。序論や付論は別として第一部は生涯と活動、第二部は使信と神学、となっている。今回は第一部を拾い読みしてみた。
1.出身と周囲の世界-回心以前のパウロ 
 パウロユダヤ教に厳格な家庭の出身である。紀元の初め頃タルソ(現在トルコ領)に生まれた。タルソは地中海交通の要所であり商業が盛んで、アテネと並び称されるギリシャ的教養の中心地であった。ユダヤ的な名前サウロを身内の呼び名とし、ローマ的な名前パウロローマ市民権をもつ者として社会的にもちいた彼は、当然十分なヘレニズム的教養を有していたと考えられる。
 当時、ユダヤ人はローマから広範な権利と保護を与えられ、ヘレニズム世界に多く散らばっていた。異教的な環境にあってもユダヤ教は高い評価を受け、異常な伝道力をもっていた。ポリスや民族国家が消滅し汎世界的になった環境で、人間は個別化され、東方から流入する密儀宗教は運命と死の諸力からの解放を約束し、多種の宗教や哲学が競争を行っていた。その中で、ユダヤ教は唯一の生ける神を信じ、厳格な律法と古い歴史をもち、偶像礼拝と道徳的退廃から決別するよう呼びかけ、将来の審判と来るべきメシアのもたらす平和と正義を告知した。その結果、改宗者を含めたディアスポロのユダヤ人はアウグストゥス帝時代に約450万人、人口の七パーセントを占める一大勢力となっていた。
 ディアスポラシナゴーグの伝道活動は、シナゴーグに集まる異邦人に唯一神信仰告白と最低限の律法(安息日、食物規定など)順守、道徳を守ることを義務づけるだけで満足した。ところが、パリサイ派主導のパレスチナユダヤ教は、より律法に厳格で割礼を受けることを絶対的な要求とした。すでにユダヤ教の異邦人伝道において、割礼問題で二つの方向が争っていたことがわかる。
 このような中で、パウロディアスポラの環境に生まれてもパリサイ派的方向(律法に厳格、割礼を要求する)に自らの進路を決め、「律法の点では責められる余地のないほど」熱狂的パリサイ人となった。彼が、パリサイ派中心地エルサエムで教育を受けたというのはおそらく正しい。ただし、使徒行伝の言う通りガマリエルの薫陶を受けたかどうかは確かではない。パリサイ人たる教育は、信仰を生活の途としないように一つの職業を選択してそれに従事することと結びついていた。パウロは、テント作り(革細工職人)となり、ユダヤ教伝道活動を開始した。
 パウロはディアスポロ出身であったにもかかわらず、ユダヤ教異邦人伝道にさいし、最も厳格なパリサイ主義(割礼要求する)に基づいて行う決心をし、実際にキリスト者になるまでそれを行っていたということは重要である。後に、割礼を強要するガラテヤの偽兄弟たちと戦うのは、決してヘレニズムユダヤ教に回帰したからではなく、彼に顕現されたイエスの「十字架の使信」ゆえにだ、ということが明らかになる。

ペテロ3…教会を建てる土台としての岩

3.クルマンは殉教者としてのペテロについて1章を割り当てて考察している。ローマ教皇権との関係で、実際にローマに行ったかどうか及びそこで殉教したかどうかが検討される必要があるためだ。パウロ同様ペテロの殉教についても新約聖書は直接言及せず、間接的な表現しか残していない。文献や発掘調査などの検討は省いて、結論だけを紹介しすれば、次のとおりである。
 エルサレム教会での指導的立場を終え、ユダヤキリスト教伝道団の頭となった彼は、おそらく晩年になって初めてローマに来て、ここで非常に短期間(数か月?)活動した後に、ネロのもとで殉教者として死んだ。彼の墓は確認されえないが、発掘は、ペテロの処刑がバチカンの領域で行われたという記事を支持する。
4.教会を建てる土台として岩
 最後にマタイ伝16:17以下「あなたは岩である。私はこの岩の上に私の教会を建てよう…」の釈義・解釈をしている。教皇権の根拠づけとなりうるかどうかは、私のような「唯一の使徒的公同の教会」を信じるだけ者には切実な関心ではない。
 だが、この箇所の意味を牧師に質問すると「ピリポ・カイザリアのキリスト告白=ペテロのイエスを神の子・キリストと信じるの信仰」の上に教会を建てるという意味だといわれた。これがプロテスタント側の解釈のようである。しかし、そのキリスト告白は、イエスの受難予告をいさめて「サタンよ退け!」と叱責されたとおり、政治的メシア期待であり、荒野でのサタンの誘惑に近いものであったことがわかる。その誤った信仰(イエスを政治的メシアとする)信仰の上に教会を建てるなどおかしい。それに信仰一般であるなら、わざわざ岩=ケパ=ペテロと関連付ける意味はない。やはり、生前のイエスがペテロを特定して、教会の土台と指名された意味を検討する必要がある。

 ダニエル書で、この世の権力が人によって切り出されたのではない岩(神の国)によって打ち砕かれることが予言されている。岩にはエクレシア(神の民=教会)の意味がある。
 クルマンは他の福音書の同様の箇所を総合して、この発言はピリポ・カイザリアではなく最後の晩餐でイエスの死による新しい契約が語られた時点でのものではないかとしている。教会=エクレシアはイスラエルの伝統によれば、契約による「神の民」の意味であり、特にキリスト教会だけの意味だけではないから、イエスご自身の発言である可能性が高い。「羊の群れは散らされる」とゲッセマネの園で予告され、ルカにあるようにペテロに「立ち直ったとき、兄弟たちを力づけなさい」と言われた。そして最初にペテロに顕現された。以上から、生前のイエスが自分の死後に最初に信徒・弟子集団を再結集させることをペテロに委託をされたと解釈する。したがって、ペテロへの委託は教会の土台を据えるごく初期に限定される。だが、時間的に限定されたペテロらの生における、受肉ナザレのイエスが復活者であるという証言がなければ、使徒の言葉によって信じる人々(キリスト者)は生まれない。彼らの使徒的証言(新約聖書)の上に、キリストはその教会=エクレシアを建て続けることを予告された、と結論付ける。
 ナザレのイエスの地上での生が一回限りで時間的・場所的に限定されていたように、ペテロが代表する使徒たち限定された生における、受肉ナザレのイエスが復活者であるとの目撃証言がなければ、キリスト教の真理は無時間的な神話に成り下がってしまうだろう。使徒らの復活証言をもって教会は黄泉の門を打ち砕き、キリストの業を果たすことが許されるのである。
 以上、クルマン「ペテロ」を学び、私たちキリスト者も自分の人生をもって死の力と戦う復活の証人(目撃証人ではなくとも聞いて信じる証人)であるべきことを深く教えられた。