inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

金沢、足軽資料館の幻想

本当に久しぶりに投稿となった。

一つは、自分のブログよりも亡夫の説教原稿を投稿するに忙しかったことがある。彼の生涯は、憑かれたように熱心に聖書を勉強し、説教を作ることを生き甲斐とした。誰よりも、自分自身のために説教を作ったのであろう。聴衆が何人であれ、イエス・キリストを主と仰ぐとはなにかを、兄弟姉妹と共に追求したかったのだと思う。

 だから、彼が精力を尽くした説教を、主にある群れの一員の奉仕として、友人・知人と共に分かち合いたいと願ってネット公開している。

 しかし、私は私の道を歩まねばならない。病を得て元気が無かった従兄弟が、ようよう「金沢観光をしたい」という意欲を見せた。それを喜び、仲良しのもう一人の従姉妹と3人で酷暑の金沢を旅してきた。

 泉鏡花室生犀星、その他金沢出身の文化芸能人は数多い。その幻想的・内面的な心情を好む私だが、今回は、足軽資料館が心に残った。

 実際に残っていた足軽屋敷を2軒移築したものだが、現在の3LDKを思わす一戸建ち住宅。使用人はおらず、勤めのほか内職に励むといった慎ましい生活だが、その中でも、学問・生け花ほか心覚えの書き付けなど展示され、教養を身につけようと励んでいた様子が偲ばれた。子供たちの部屋とおぼしきところには、大きな凧が飾ってあり、食堂には箱膳が並び、母の心づくしの夕餉を囲む家族団らんが目に浮かぶ。

 加賀乙女は「あさがをに釣瓶とられて…」と歌い、泉鏡花の祖母は雀に餌を与えるのを楽しんだという。身近な者をいとおしむ、金沢独特のしっとりとした情愛風景は、こうした家族愛から生じてきたのであろう。鏡花や犀星の幻の中に、母性へのあこがれと畏怖があることも納得できる気がした。

 だが、母性とは遠ざかっていく記憶である。謡曲の主人公がすべて亡霊であるように、今に生きる私たちは幻を懐かしむだけでは生きていけない。父母を懐かしみつつそれを超えた広々とした愛を、身近だけでなく世界を友とする愛を、切に求める気持ちも育っていくのだ。多くの哲学者や宗教家、また妙好人の生まれた風土でもある。

 新幹線輝きが通じ、多くの外国人観光客に出会った。閉ざされた風土から、世界に開けた都市へと変貌しようとしている金沢を感じた。金沢独特の情愛が、どのように異国の人に、またよそ者たちへとむけられて行くのだろう。それはきっと、そねみや競争心の少ない、豊かな心で他者をみる目であろう。

 金沢は、記憶にある低い屋根の連なる町並みから、高層ビルやマンションの建ち並ぶ風景へと変貌しつつある。かつてだけでなく、これからへと金沢も変貌していく。父の故郷金沢も、私の住む東京下町と同じ平面、同じ日本であることに納得して帰路についた。故郷は場所ではなく、父母をも一人の人間として、また懐かしい友・兄弟姉妹として愛する私自身の心の中にある。

 優美華麗な文物よりも、質素な足軽資料館にかえって故郷を発見できて満ち足りた旅であった。

 

映画、「孤独のススメ」感想

レンタルビデオ屋をのぞいた。コメディの棚に、初老の男のカバーで「孤独のススメ」があったので、借りてみた。

 真っ平らなオランダの郊外をバスが走っている。乗客も少ない。初老で独り者の男(フレッド)が、バスをおりる。自宅前の原っぱで子供たちがサッカーをしているのを眺める。(息子もああして遊んだ)。家に入る。美しい妻と7・8歳の息子の写真の前で、カセットテープの音楽を聴く。8歳だった息子(ヨハン)の天使の歌声である。マタイ受難曲、ペテロの否認の後のアリア「Erbarme dich, mein Gott.…憐れみ給え、わが神よ、したたり落ちるわが涙のゆえに」である。ふと窓の外をみると、隣人の庭に、無精ひげの浮浪者がきているではないか。昨日、金を渡してあげた男だ。また物乞いかとカッとなり、外に出て浮浪者をしかりつける。ただで金をもらうのではなく、庭の雑草取りでもして働いて稼げという。浮浪者はおとなしく従い、彼の庭で働いた。その労をねぎらうつもりで、夕食を振る舞った。帰る家がなさそうなので、息子の部屋だったところに泊めることにした。案内して部屋のドアを開けると、ギターや楽譜スタンドが、(息子が)いた頃のままおかれている。息子が学生だった頃が思い出された。

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映画好き

  亡くなった夫は、映画大好き人間であった。新婚早々、夫婦喧嘩で小遣いを使いすぎるとなじったところ(とても貧乏だったので)、「映画だってこの頃は月に1回くらいしか見ていないぞ!」と言いかえされたのには驚いた。年に2回か3回映画館に行く程度の私には、感動的であった。何事もまず書物を手がかりに考えるものと思っていたので、映画は単に娯楽に過ぎないと考えていた。ところが、夫は映画に表現された庶民の哀歓を手がかりに人生や信仰について発想するのである。彼が20代のころ教会の週報に投稿した「ライムライト」の感想文を読んで、こんなに直に映画から発想する感性に驚いた記憶がある。

 家庭礼拝でマタイ伝を講読している。イエスが行われた癒し奇跡を連続して読んでいくと、癒された人々がすべて全くの庶民であり、信仰的思索からイエスを求めたのではなく、自分自身や子供の病や不具、人から嫌われ遠ざけられる罹病といった人生の挫折や困窮の中から、藁をもつかむ一途さでイエスに助けを求めたことがわかる。肉体的な苦痛や不具、社会から疎外され、愛されない、といった生の挫折に追い立てられイエスに駆け寄り、すがりつく。そのような情景が映画のシーンのように浮かんでくる。

 私自身、外面的な困難(病や貧乏や権力の抑圧など)には信仰とは別に対処し、内面的な問題は信仰によって解決しようという傾向がないだろうかと反省した。そんなデスクに座っているような求め方には、自分を投げかける一途さがない。救いを求めてイエスに駆け寄り、ひれ伏して、はじめて彼を「主」と呼ぶ者となるのではないか。そんなことを福音書を読みながら考えた。

 映画には、行動で人間全体(人との関わりや肉体と精神)を表現する感性がある。映画を楽しむ庶民の心のまま、福音書のイエスに出会ったであろう夫を懐かしく思う。

「耳がない」こと

もう、相当昔、英語の教材で「エリア随筆」からドリーム・チルドレンを読んだ。それから、しばらくc・ラムに夢中になり、戸川秋骨訳「エリア随筆」を読みふけったことを思い出す。

 就職、結婚、子育て、夫の病気と介護、生活の闘いの連続で、「エリア随筆」のようないわば暇な教養人の世界を忘れ果てて過ごしてきた。けれど、娘とか妻とか親とか、役割から解放されて全くの個人としてあと数年、生きて終わる境遇になってみると、ラムの寂寥感というか諦念というか、それでいてなお生きることの辛さや切実さを感じさせる文章が懐かしくよみがえってくる。

 ユン・イサンという現代作曲家のチェロ協奏曲を聴きに行って、ラムの「耳について」を思い出したといったら、申し訳ないだろうか。胸が痛くなり、激しく求め憧れ、あきらめつつなお理想の達成を夢見る等のイメージが幻想のように往来するが、結局何に感激したのかは言葉にならない。「句読点の連続、中身の文章は自前で充填する…」なんて文章を、何十年ぶりかで思い出してしまった。音楽だけではない。「耳がない」者にとって、いろんな分野で同じような体験をするのである。たとえば、カトリック系の神秘家の詩。十字架の聖ヨハネの「愛の炎」を読んで、心は燃え、感動する。だが、何についてどう感動しているのか、聖ヨハネの解説を読んでもはっきりしない。わたしには、「耳がない」のである。

 

 

 

上橋菜穂子「闇の守人」、愛する者を弔うということ。

 日本文学には、聖書の神の意識がなく、情感的には共感するだけに、知的結論にはどうもついていけない気がする。

 だが、これだけは日本物でなくてはと思う分野がある。それが、剣豪小説や格闘技の登場する分野である。といっても眠狂四郎円月殺法のような、夢みたいなものではなく、息を切らし飛びかかり血を流して斬り合う迫力あるリアルな描写である。たとえば、藤沢周平。斬り合いの描写の、スローモーションを見るような迫力!こんな闘いの描写を、外国小説で読んだことはない。

 格闘技描写では、夢枕獏がすごい。そして、最近では上橋菜穂子!「守人」シリーズがテレビドラマ化されていたが、主人公のバルサは女ながらに短槍の名人(いわゆる剣豪)である。命の恩人である養父ジグロに仕込まれた槍の腕前で用心棒稼業に携わっている。

 その彼女が、山の王の宝を巡って亡霊と短槍試合をすることになる。なんと相手は、養父ジグロの亡霊ではないか。バルサは、彼の自分に対する憎しみを知って驚愕する。「おまえのために、俺は自分の人生の一切を失った!」「6歳の私に何ができた!私こそ、そんな重荷をあなたに負わされて苦しんでいるではないか!」。二人の槍は、正確に互いの攻守を知り、互角で、ついに二人で一つの舞を舞うようになる。そして闘いが静止する(終わる)。

 私が言いたいのは、愛する者を弔うということは、よいことばかりを懐かしく思い出すことではない。バルサとジグロの闘いのように、恨み辛みをぶつけ合い死力を賭して、苦しみながら戦うことだ、ということである。

 息を切らし全力で闘って、闘って、戦い抜いて、はじめて闘いが静止する瞬間がくる。お互いが、一つになる。相手も自分も、意識の中で相対化され、共通の救いのようなものが浮かび上がってくる。そんな瞬間を求めて、闘ったということがわかる。これは、一つのイメージである。

 私にとって、世を去った人を思い出すと言うことは、まだ平安ではない。だが、胸痛く苦しく思い出すということが、亡き人を愛し弔うという一つの形ではないか。そんなことを、この小説を読んで、わたしは感じたのであった。

おらはおらで独りでいくも

芥川賞を獲得した作品が、ある寡婦の「おらはおらでひとりでいくも」だそうである。

そく、宮沢賢治絶唱、「永訣の朝」から取られていることを思い出した人は多いだろう。結核で世を去ろうとする最愛の妹が、いまわの際に賢治に一椀の雪を所望する。「私を一生幸せにするために」その奉仕を頼んでくれた妹!彼女は、自分のために兄や家族が看護に苦労すると悩み、(うまれでくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよにうまれてくる)=今度生まれてくるときには、こんなに自分のことばかりで苦しまないように、(他者のために奉仕できるように生まれてきたい)といった。「とんでもない、おまえが私に雪を所望してくれたこと、その思い出が私を一生幸せにしてくれるなによりの奉仕ではないか。(Ora Orade Shitori egumo)先に天上に生まれて修羅である私を支えくれる存在へとおまえはなろうとしている。このふた椀の雪がおまえと私と衆生すべてを養い清める食物となることをすべての幸いを賭して私は祈る。」そんな感じの詩であった。

 信仰を同じくする賢治の妹、とし子の、いまわの言葉(私は私で独りで行きます)はどんな思いがこめられていたんだろう。兄を支えて共に生きることはできない。ごめんなさい、先に世を去ります。そして独立した存在となって、衆生を支えます。と賢治は解したとおもう。芥川賞作品はまだ読んでいないけれど、とし子の(Ora Orade Shitori egumo)を、どう解釈したのかいつか読んでみたいと思う。

 

アイヴァンホー(2) ドラクロワ「レベッカの略奪」

 ドラクロワ展を見に行ってタイトルの絵に出会った。絵の題材はおおかた聖書かギリシャローマ神話と思いこんでいた私には、さっぱり何の絵かわからなかった。一人の獰猛な顔つきの黒人が火事場とおぼしき立派な部屋から女を拐帯して脱出する場面を描いている。女は後ろ向きで顔がわからない、背景の病人のような人は女か男かわからないし、明らかに絵の焦点はこの黒人の顔にある。

 アイヴァンホーを読み返して、合点がいった。これは、城の攻防で火をつけられた城から、敵役ブリアン・ド・ギルベールが横恋慕するユダヤの美女を拐帯し脱出する場面なのである。彼は武勇並びなき騎士であるが、武勲を捧げたレディに裏切られ、僧侶の騎士団にはいった。そして、十字軍の騎士団というものの実態は、聖地においては侵略と略奪、西欧においては王権との権力争いであることも見極めてしまった。武勇の誇りのみを支えとしてデカダンに生きる男なのである。この騎士団の長となり、王権にも勝る権力を手にすることが今のところの野望である。黒人と見えるばかりに日焼けした相貌、ノルマンの貴族出身の僧侶にしての騎士。

 身代金目当てに略奪した一行のなかの美女、ユダヤ人のレベッカを自分の取り分としてものにしようと、閉じこめた塔の一室を訪れるが、彼女は一歩でも近づけば飛び降りると城壁の飛び上がり、激しい気骨とユダヤ人の信仰、コスモポリタン的知性を見せて、彼を驚愕させる。恐ろしい運命にもおそれず、たじろがず、人間とも思えぬ威厳があった。ギルベールは自分も誇り高く気骨ある男であったから、これほどの女と美をみたことがないと思う。そこで名誉にかけ、無態なことはしないと誓って、今度は本気で口説きにかかる。

 そこで黒騎士(リチャード・プランタジネット)指揮するロビンフッド軍の城攻撃が始まり、城は火事となる。落城を覚悟したギルベールが、レベッカをさらって脱出する場面をドラクロワが描いていたのであった。背景の病人は、武術試合で重傷を負いレベッカに庇護されたアイヴァンホーである。

 身動きできないアイヴァンホーに、レベッカが城の戦いの模様を窓からのぞいて報告する場面も、非常に面白い。しかし、敵役ギルベールのレベッカへの悲恋(横恋慕だが)と、その悲劇的成り行きが物語に重厚な味わいを添え、単純な騎士道賛美となっていないところが心に残る。ドラクロワの関心もここにあったのであろう。ギルベールの表情を、迫力をもって描いたのであった。