inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

使徒パウロ3 第一回エルサレム上京からアンテオキアを中心とする活動時代 

第一回エルサレム上京から使徒会議と第一回伝道旅行(35~48年頃)

①第一回エルサレム上京(35年頃)
 ダマスコでナバテア王代官から逃れた直後、パウロは「ケパ(ペテロ)と近づきになるために」エルサレムに上京し、ケパのもとで足掛け15日滞在し、その間主の兄弟ヤコブにもあったと述べている(ガラテヤ1:18)。
 何のための上京であったのか。パウロの回心は、律法によらない新しい義の道が開けたことをキリストから啓示されたと確信した。「人々によってでも、人によってでもなく、イエス・キリストによって召された」使徒であるけれども、同じくキリストによって召されたイエスのご生涯と復活の目撃証人である使徒達、なかでも原始教会の柱である使徒ペテロと会い、同じ福音を受けたことを確認したかったのではないか。そしてペテロから信仰告白定型文「キリストが、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、…三日目によみがえったこと」「①ケパに…、②次に12人に…。③そののち五百人以上の兄弟たちに、同時に…。⓸…そののち、ヤコブに…、⓹次にすべての使徒たちに現れ」(Ⅰコリント15:3以下)の信仰告白定型文を「受けた」と考えられる。そして顕現リストの最後に⑥パウロ自身への顕現を付け加えることが合意された。だから、ペテロは、パウロが受けてすでに宣べ伝えている福音が、自分達が宣べ伝えている福音と同一であることを認め、かつパウロへの顕現を信仰告白定型文に付け加えたのである。
 教会の迫害者であったころからすでに優秀な異邦人伝道者であり、「同国人で同年輩の誰よりもユダヤ教に精進していた」パウロは、同一の福音であることを互いに認め合った以上、優秀なヘレニストキリスト者たちの去った、素朴な庶民上がりのヘブライストキリスト者を中心としたエルサレム教会に、これ以上とどまる必要はなかった。また、ステパノらヘレニストを迫害した当時のエルサレム情勢から、滞在はパウロだけでなくエルサレム教会にとっても危険であったことだろう。

②アンテオキア教会を中心とする活動(35年~48年頃)
 パウロエルサレムを去り、遠隔の(故郷タルソのある)キリキア地方、およびシリア地方を中心として、単独の伝道活動を再開した。伝道は成功をおさめ、かつての迫害者がキリストを宣べ伝えていると聞いて、エルサレムキリスト者達は神を賛美した。
 ところでシリアの中心都市アンテオキアには、エルサレムを追われたヘレニストキリスト者バルナバらが創設した教会が存在した。異邦人を多く受け入れ、大都市であったから迫害を受けることもなく、盛んに宣教活動を行っていた。この教会の中心人物のひとりバルナバは、パウロの噂を聞いて、彼に会い、伝道者としてアンテオキア教会に連れてきた。それまで、一匹狼で単独で活動していたパウロは、以後、アンテオキア教会から派遣される形で(後ろ盾を得て)活動できるようになった。パウロの働きは目覚ましく、アンテオキアでは、キリスト者たちはユダヤ人・異教徒とならぶ第三の勢力として「クリスチャン=キリスト者」と呼ばれるまでになった。
  一方、ユダヤ国内ではローマ支配からの解放を目指す偏狭な愛国熱が高まり、律法をおろそかにするような気配があれば、リンチや迫害に遭うような情勢であり、十二使徒の一人であるヤコブは殺害され、ペテロも捕縛された。天使の助けにより脱獄したが、ペテロはもはやエルサレムにとどまることはできず、教会指導を主の兄弟ヤコブに託して各地で伝道者として活動するようになった。

エルサレム使徒会議と第一回伝道旅行(48年頃)
 このような情勢は、教会がユダヤ国外では律法を軽視していると知られれば、エルサレム原始教会まで迫害される可能性さえあった。律法を重んじるエルサレム教会の一部の者たちは、異邦人入信者に割礼を受けさせよとアンテオキア教会に要求してきた。異邦人伝道の中心地となっていたアンテオキア教会にとって、従来および今後の宣教にかかわる重大問題であったから、これについてエルサレム側と話し合うため、パウロバルナバエルサレムに派遣した。これが、エルサレム使徒会議である。
 これは、キリスト教が世界的視野をもつか、ユダヤ教内部にとどまるかの瀬戸際問題であったから、パウロはわざわざ異邦人キリスト者テトスを同伴し、瞬時もテトスへの割礼強要に屈せず、エルサレム側を説得した。エルサレム原始教会に異邦人を割礼なしで受け入れるさせるまでは情勢からみて困難であった。だが異邦人伝道を最初に開始したペテロ(会議のためエルサレムに来た)の協力もあり、結局、①異邦人伝道は従来通りパウロらアンテオキア側が、ユダヤ人伝道はペテロを中心にエルサレム側がと、宣教の役割分担を行う、②ただし異邦人側は、信仰の一致とエルサレム側から受けた福音の感謝のしるしとしてエルサレム原始教会に献金する、という妥協が成立した。
 これは受け取り方で、ユダヤキリスト者は律法重視するともとれる。だが、パウロとしては、異邦人伝道に一層熱が入ったことであろう。直後から、アンテオキアでは異邦人・ユダヤ人の共同の食事まで行われるようになった。パウロバルナバは、アンテオキア教会から派遣され、バルナバの故郷キプロス島を含む第一回伝道旅行を行う。

 

使徒パウロ2 回心と召命

教会の迫害者-回心と召命
 使徒行伝によれば、エルサレム原始教会内部に、ヘレニスト(ギリシャ語を母国語とするディアスポラユダヤ人)とヘブライスト(アラム語を母国語とするパレスチナユダヤ人)の対立が起きたとある。これは、実は物資配給問題ではなく、律法から自由なヘレニストキリスト者(ステパノ・ピリポら)と律法を重視する伝統的ユダヤキリスト者の、信仰理解における対立であった。律法重視のヘブライストキリスト者は迫害を受けなかったが、ステパノのユダヤ人弾劾演説を機に律法から自由なヘレニストキリスト者に対する迫害が起こり、ヘレニストはユダヤから逃げ出さざるを得なかった。その結果、シリア地方ほか異邦人の地にヘレニスト的キリスト教(律法から自由な)が伝播した。もちろん、これは各地のシナゴーグを中心に宣教された。
 パウロは「割礼を宣べ伝える」熱狂的なパリサイ派ユダヤ教伝道者であった。だから、律法から自由なヘレニスト的キリスト教は彼の伝道活動を足許から切り崩すものであった。シナゴーグにおいて、キリスト者イスラエルの信仰伝統に背くものとして迫害したのは当然である。ただし、殺害までの権限はユダヤ教団になく、現在でもイスラム国家でみられるむち打ちなどで罰したものと思われる。パウロ自身、キリスト者となってから3度もユダヤ人から(シナゴーグで)39回のむち打ちをうけている。
 キリスト者弾圧の意図をもってダマスコ周辺にいた時、突然、予想もしない復活のイエス顕現という、いわゆる幻視体験をする。印象的なのは彼は生前のイエスを知らないから、顕現されたイエスに「あなたはどなたですか」と尋ねることである。12使徒らとはまったく違う思いがけなさであったろう。この体験により、今まで彼が宣べ伝えていた、かつて出エジプト・シナイ契約という形で人間に介入された唯一の生ける神が、イエス派遣という行動によって最後決定的に歴史に介入されたことを悟る。そして、アナニアという人物の関与によって、キリスト教へと180度の転換をした。アナニアの教会から基本的な信仰告白を伝えられたであろう。
 ユダヤ民族の父祖伝来の、彼が命がけで勝ち取ろうとしてきた律法遵守による義、いわば人間主体の義ではなく、神が主体となって、キリストを信ずる信仰によって与えられる義=恩寵による義の道が今や開かれたのである!パウロのそれまでの一神教伝道は一変した。律法(シナイ契約)から解放された恩寵による義=キリスト・イエスを信ずる信仰による義(新しい契約)を宣べ伝えねばならない。パウロの回心は単に個人的な救いではない。割礼を受けユダヤ人になることによってではなく、ありのままの人間全体に打ち開かれた救いの道を宣べ伝えるために、預言者エレミアが受けたように「母の胎から彼を選び分かった」神からの召命の体験であった。これはイエスの死と復活の約2年後、紀元33年頃とされる。
 パウロは直ちに「骨肉に相談もせず」アラビア(ペトラを中心とするナバテア王国。当時は商業都市として栄えていた。)伝道に出発した。足掛け3年滞在し、ナバテア王の弾圧を受けてダマスコに戻る。そこでも彼はナバテア王代官に逮捕されそうになり、城壁を籠で釣り降ろされて逃れた。ナバテア王はユダヤヘロデ王と仲が悪かったが、それだけでなく、あまり熱心な伝道がユダヤ人及び多神教の地域住民の憤激を招いたのではないだろうか。教会設立までは至っていない。

 

使徒パウロ1

 11月に「パウロ~愛と赦しの物語~」という映画が封切りになるとのこと、教会にポスターが貼ってあった。教会の仲間と一緒に見に行くことになったので、使徒パウロの伝記をおさらいしてみようと思う。
 夫の蔵書の中で参考になりそうなものを探し、ボルンカム「パウローその生涯と使信」を見つけた。序論や付論は別として第一部は生涯と活動、第二部は使信と神学、となっている。今回は第一部を拾い読みしてみた。
1.出身と周囲の世界-回心以前のパウロ 
 パウロユダヤ教に厳格な家庭の出身である。紀元の初め頃タルソ(現在トルコ領)に生まれた。タルソは地中海交通の要所であり商業が盛んで、アテネと並び称されるギリシャ的教養の中心地であった。ユダヤ的な名前サウロを身内の呼び名とし、ローマ的な名前パウロローマ市民権をもつ者として社会的にもちいた彼は、当然十分なヘレニズム的教養を有していたと考えられる。
 当時、ユダヤ人はローマから広範な権利と保護を与えられ、ヘレニズム世界に多く散らばっていた。異教的な環境にあってもユダヤ教は高い評価を受け、異常な伝道力をもっていた。ポリスや民族国家が消滅し汎世界的になった環境で、人間は個別化され、東方から流入する密儀宗教は運命と死の諸力からの解放を約束し、多種の宗教や哲学が競争を行っていた。その中で、ユダヤ教は唯一の生ける神を信じ、厳格な律法と古い歴史をもち、偶像礼拝と道徳的退廃から決別するよう呼びかけ、将来の審判と来るべきメシアのもたらす平和と正義を告知した。その結果、改宗者を含めたディアスポロのユダヤ人はアウグストゥス帝時代に約450万人、人口の七パーセントを占める一大勢力となっていた。
 ディアスポラシナゴーグの伝道活動は、シナゴーグに集まる異邦人に唯一神信仰告白と最低限の律法(安息日、食物規定など)順守、道徳を守ることを義務づけるだけで満足した。ところが、パリサイ派主導のパレスチナユダヤ教は、より律法に厳格で割礼を受けることを絶対的な要求とした。すでにユダヤ教の異邦人伝道において、割礼問題で二つの方向が争っていたことがわかる。
 このような中で、パウロディアスポラの環境に生まれてもパリサイ派的方向(律法に厳格、割礼を要求する)に自らの進路を決め、「律法の点では責められる余地のないほど」熱狂的パリサイ人となった。彼が、パリサイ派中心地エルサエムで教育を受けたというのはおそらく正しい。ただし、使徒行伝の言う通りガマリエルの薫陶を受けたかどうかは確かではない。パリサイ人たる教育は、信仰を生活の途としないように一つの職業を選択してそれに従事することと結びついていた。パウロは、テント作り(革細工職人)となり、ユダヤ教伝道活動を開始した。
 パウロはディアスポロ出身であったにもかかわらず、ユダヤ教異邦人伝道にさいし、最も厳格なパリサイ主義(割礼要求する)に基づいて行う決心をし、実際にキリスト者になるまでそれを行っていたということは重要である。後に、割礼を強要するガラテヤの偽兄弟たちと戦うのは、決してヘレニズムユダヤ教に回帰したからではなく、彼に顕現されたイエスの「十字架の使信」ゆえにだ、ということが明らかになる。

ペテロ3…教会を建てる土台としての岩

3.クルマンは殉教者としてのペテロについて1章を割り当てて考察している。ローマ教皇権との関係で、実際にローマに行ったかどうか及びそこで殉教したかどうかが検討される必要があるためだ。パウロ同様ペテロの殉教についても新約聖書は直接言及せず、間接的な表現しか残していない。文献や発掘調査などの検討は省いて、結論だけを紹介しすれば、次のとおりである。
 エルサレム教会での指導的立場を終え、ユダヤキリスト教伝道団の頭となった彼は、おそらく晩年になって初めてローマに来て、ここで非常に短期間(数か月?)活動した後に、ネロのもとで殉教者として死んだ。彼の墓は確認されえないが、発掘は、ペテロの処刑がバチカンの領域で行われたという記事を支持する。
4.教会を建てる土台として岩
 最後にマタイ伝16:17以下「あなたは岩である。私はこの岩の上に私の教会を建てよう…」の釈義・解釈をしている。教皇権の根拠づけとなりうるかどうかは、私のような「唯一の使徒的公同の教会」を信じるだけ者には切実な関心ではない。
 だが、この箇所の意味を牧師に質問すると「ピリポ・カイザリアのキリスト告白=ペテロのイエスを神の子・キリストと信じるの信仰」の上に教会を建てるという意味だといわれた。これがプロテスタント側の解釈のようである。しかし、そのキリスト告白は、イエスの受難予告をいさめて「サタンよ退け!」と叱責されたとおり、政治的メシア期待であり、荒野でのサタンの誘惑に近いものであったことがわかる。その誤った信仰(イエスを政治的メシアとする)信仰の上に教会を建てるなどおかしい。それに信仰一般であるなら、わざわざ岩=ケパ=ペテロと関連付ける意味はない。やはり、生前のイエスがペテロを特定して、教会の土台と指名された意味を検討する必要がある。

 ダニエル書で、この世の権力が人によって切り出されたのではない岩(神の国)によって打ち砕かれることが予言されている。岩にはエクレシア(神の民=教会)の意味がある。
 クルマンは他の福音書の同様の箇所を総合して、この発言はピリポ・カイザリアではなく最後の晩餐でイエスの死による新しい契約が語られた時点でのものではないかとしている。教会=エクレシアはイスラエルの伝統によれば、契約による「神の民」の意味であり、特にキリスト教会だけの意味だけではないから、イエスご自身の発言である可能性が高い。「羊の群れは散らされる」とゲッセマネの園で予告され、ルカにあるようにペテロに「立ち直ったとき、兄弟たちを力づけなさい」と言われた。そして最初にペテロに顕現された。以上から、生前のイエスが自分の死後に最初に信徒・弟子集団を再結集させることをペテロに委託をされたと解釈する。したがって、ペテロへの委託は教会の土台を据えるごく初期に限定される。だが、時間的に限定されたペテロらの生における、受肉ナザレのイエスが復活者であるという証言がなければ、使徒の言葉によって信じる人々(キリスト者)は生まれない。彼らの使徒的証言(新約聖書)の上に、キリストはその教会=エクレシアを建て続けることを予告された、と結論付ける。
 ナザレのイエスの地上での生が一回限りで時間的・場所的に限定されていたように、ペテロが代表する使徒たち限定された生における、受肉ナザレのイエスが復活者であるとの目撃証言がなければ、キリスト教の真理は無時間的な神話に成り下がってしまうだろう。使徒らの復活証言をもって教会は黄泉の門を打ち砕き、キリストの業を果たすことが許されるのである。
 以上、クルマン「ペテロ」を学び、私たちキリスト者も自分の人生をもって死の力と戦う復活の証人(目撃証人ではなくとも聞いて信じる証人)であるべきことを深く教えられた。

ペテロ2、使徒として

2.使徒ペテロ
 前回はイエス在世中の弟子ペテロであった。イエスの死と復活の後、彼は単に弟子集団代表ではなく、主がこの世におられないことからこの弟子小集団の指導を一定期間果たすことになる。また主から特別な委任(「兄弟たちを力づけてあげなさい」「私の羊を養いなさい」「この岩(ケパ)の上に教会を建てよう」ほか)を受けたことについては、別に検証されている。またイエスがペテロに最初に顕現されたとことも彼に権威を与えたであろう。
a.原始教団の指導
  使徒行伝1:15以下、12弟子の補欠選挙をさせるのはペテロである。彼が信徒グループの長であることがわかる。聖霊降臨の際には、12弟子とともに立ち上がりペテロが事態を説明する。盛んに奇跡を行い、宮で、足の利かない男に「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩め」と言うのもペテロである。その時同行したヨハネもペテロに次いで原始教団内で権威ある地位を占めていたことは、ガラテヤ書でケパ、ヤコブとともにヨハネを教団の柱とされていることからも確認できる。アナニヤ夫妻への教会戒律行使において、神の名において審判を下す権威もペテロは持っていた。ただし独裁ではなく、12使徒、のちには主の兄弟ヤコブらと集団指導体制中の筆頭という感じである。
 ステパノ殉教後、エルサレムを追われたヘレニスト・キリスト者(ピリボほか)によるサマリア伝道が成功をおさめると、エルサレムから独立していた領域であるにも関わらず、エルサレム教団はペテロとヨハネを送って按手と霊の授与を行わせた。つまり、当初においてすべての宣教はエルサレム教団に従属するとみなされていた。
 ピリポらヘレニストがエルサレムを追われても、12使徒およびユダヤ主義キリスト者エルサレムにとどまりえた。つまり、ユダヤ教から迫害を受けていない。12使徒はヘレニストとユダヤ主義キリスト者を仲介する立場にあったようだ。
 サマリアの後、ペテロはユダヤ・ヨッパ・ガリラヤ伝道も行い、異邦人コルネリオに洗礼を授けている。使徒行伝によれば、異邦人伝道も彼が開始しエルサレム教団から承認を受けている。
 ヘロデ王の迫害でヨハネの兄弟ヤコブが殺害され、ぺテロも捕らえられたが、み使いによって助け出される。その後、ペテロは迫害を逃れるためエルサレムから出て行った。その時点で、エルサレム教団への彼の指導は終わり、主の兄弟ヤコブがそのあとをつぐ。
 その後はエルサレム教団から委任され同時に従属する形で伝道者としての活動をする。
 まとめると、イエスの死後初期においてエルサレム教団を指導し、その後エルサレムを去って、エルサレム教団の指導権を主の兄弟ヤコブ譲った。そして、エルサレム教団に従属する形で「ユダヤキリスト教伝道団」の頭となった。
b.使徒委任の問題
 使徒としての活動は①教団の指導②伝道説教の二つの面がある。パウロの召命体験のように復活のイエスから委任を受けただけではなく、地上のイエスからすでに「岩」の称号を受け、「兄弟らを力づけてやりなさい」と言われていることから、すでに生前のイエスから委任された可能性が高い。そしてまず最初にペテロに顕現され、「私の羊を飼いなさい」と言われた。しかし「羊を飼え」との委任にはペテロの殉教予告も含まれている。したがって、彼への委任は「教会の基礎づけの時」に限られているとみるべきである。
c.ペテロの神学的見解
  クルマンによれば、ペテロは12使徒中もっともパウロに近い立場にたつ。救いをユダヤ人に限定せず普遍主義である。アンテオケでパウロから叱責されたのも、ペテロ自身は異邦人との会食に賛成であるのに、主の兄弟ヤコブのもとから来た人々に気兼ねして、自分の信念と異なる行動をとったからであった。(だが、エルサレムから独立して活動していたパウロとは違い、ペテロはエルサレム教団に従属していたことを考慮すべきであるが)。

 普遍主義である原因は、ヘレニズムの影響が濃いベツサイダ出身だからというより、イエスの言動から学んだからであろう。カペナウムの百卒長との出会いで「(神の国の祝宴に)東から西から人々(=異邦人)がくる」とイエスは予告された。何よりも、イエスの受難予告をいさめた際、「サタンよ引き下がれ」と叱責された反省から、イエスの苦難と死を必然と受け取り、第二イザヤの予言した苦難の僕としてイエスの代理死を理解したからに違いない。使徒行伝でもペテロ第一の手紙でも、「神の僕」(第二イザヤ)としてイエスが表現され、最古のイエスの称号となっている。これは、ペテロ自身の解釈からであろう。彼は、パウロと違ってラビから神学専門教育を受けてはいない。だが、単に実践的教団組織者ではなく、キリスト教神学の基礎づけに大きな影響を与えたことを忘れてはならない。

シモン・ペテロ1

 クルマン著「ペテロ」を読み返した。お堅い神学書であるけれど、原始キリスト教史に関わるもので、それほど難解ではない。新約聖書でもっとも親しみを感じるペテロについて、この本に刺激されていろいろ考えさせられた。しばらく、ペテロのことを書いてみようと思う。

1.名前・出身地・ 彼の本名はヘブル語名シメオン、あるいはシモン。シモンは純ギリシャ的名前である。出身地ベツサイダはかなりギリシャ化されているから、シメオンが音の似た「シモン」に変化したのではなく、当初から「シモン」であった可能性が高い。弟のアンデレ、同地出身のピリポもギリシャ的名前である。
 イエスから呼び名あるいは渾名でケパ(アラム語で岩の普通名称)を授かる。他の弟子も「ボアネルゲ=雷の子」などイエスから渾名をつけられている。ペテロ(ペトロス)は、ケパ(岩)をギリシャ語に翻訳したもの。私たちは「ペテロ」という名をまず思い出すが、それはアラム語ギリシャ語に翻訳した普通名詞であって、固有名詞ではない。だから、「シモン・ペテロ」とは「岩であるシモン」ということになる。

 彼がイエスを神の子と告白した後、イエスは「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである」と呼びかけておられる。このバルヨナは「ヨナの息子」の意味。一方、アラム語で「バルヨナ」はテロリストの意味だとの説もあり、その場合、イスカリオテのユダ同様に、熱心党に属していたことになる。当時のユダヤはローマの支配から脱したいと熱望する雰囲気がかなり強かった。イエスの弟子たちのなかにもイエスを「政治的メシア」と期待する者や雰囲気が存在したであろう。
 出身は漁港ベツサイダはユダヤだが、周囲は異教的であり、ここで育った者は当然ギリシャ語を話せて、ギリシャ的文化にも親しんでいたそうである。これは、後に伝道者として働く上で役立ったことであろう。もっとも、ユダヤ的にもギリシャ的にもなんら教育を受けていない「無学」な庶民(漁夫)であった。

 後にカペナウムに住居を持ち、弟アンデレ、妻・姑と同居。イエスはたびたび彼の家に滞在した。ヨハネ伝から推定すると弟アンデレやもう一人の無名の弟子と同様、洗礼者ヨハネの弟子仲間に何らかの形で属していたようである。

2.弟子集団の中での立場: 弟子集団の中で、ペテロは特別の位置を占めている。ゼベダイ兄弟や弟アンデレとともに、イエスにもっとも親密な一団に属し、アンデレとともにイエスが召した最初の弟子であった。そのイエスに親密な一団の中でも特にペテロは目立つ存在であり、12弟子の代弁者・代表者であった。イエスの弟子たちへの問いに、いつもペテロが答え、弟子たちを代表してイエスに質問したりしている。また、外部の者たちにも弟子団の代表扱いされ、宮の納入金を集める者がペテロに問いかけている(マタイ17:27)。

 福音書はすべてペテロを弟子リストの最初に挙げ、マルコ伝では空虚な墓でみ使いがマリヤに「弟子たちとペテロとのところに行って、こう伝えなさい。イエスはあなた方より先にガリラヤにいかれる」と、わざわざペテロを別扱いしている。

  特に忘れがたいのは、イエスがペテロにいわれた「シモン・シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のようにふるいにかけることを許された。…あなたが立ち直った時には、兄弟(弟子仲間)を力づけてやりなさい」という言葉である。つまり、イエスご自身からもちりぢりとなる弟子たちの再結集を期待された人物であったのである。

 だが一方、「岩」どころか人間的な弱点をさらけ出す人物であった。感激のあまり湖を歩き出すがすぐ恐怖に襲われたり、忠誠を誓ったその晩にイエスを否認し、激しく泣くのである。このようなペテロを、「岩」として、イエスは教会をお建てになる決断をされたのであった。

パソコンダウン

 愛用のパソコンがダウンした。メール送受信のみならず、ネット検索や手紙などの文書作成もままならない。早速、新規購入したが、今まで便利に使っていたデータも別のHDDに保存していたもの以外は、すべてパーになった。

 なにもかも、新規まき直しである。まるで人生やり直しみたい。とはいえ、まっさらの新しい自分になれるわけではないから、孤独で能無しの老人であることを痛感した。

 限られた能力と気力、それに資力の範囲内で残りの人生(短くもなさそうなのが恐ろしい)をどうにか過ごさねばと思っている。しかし団塊の世代のわたしと同じような人は大勢いるはずだ。年齢を感じて、がっくりする人だって多いだろう。ま、どうにかやるっきゃない。なんとか頑張りましょうと、顔も知らない同じような人たちに呼びかけ自分を励ましている。

 このブログも、自分が想像する私に似た人、あるいは自分自身に向けて作成している。願わくば、彼らあるいは自分の励みになりますように。