inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「耳がない」こと

もう、相当昔、英語の教材で「エリア随筆」からドリーム・チルドレンを読んだ。それから、しばらくc・ラムに夢中になり、戸川秋骨訳「エリア随筆」を読みふけったことを思い出す。

 就職、結婚、子育て、夫の病気と介護、生活の闘いの連続で、「エリア随筆」のようないわば暇な教養人の世界を忘れ果てて過ごしてきた。けれど、娘とか妻とか親とか、役割から解放されて全くの個人としてあと数年、生きて終わる境遇になってみると、ラムの寂寥感というか諦念というか、それでいてなお生きることの辛さや切実さを感じさせる文章が懐かしくよみがえってくる。

 ユン・イサンという現代作曲家のチェロ協奏曲を聴きに行って、ラムの「耳について」を思い出したといったら、申し訳ないだろうか。胸が痛くなり、激しく求め憧れ、あきらめつつなお理想の達成を夢見る等のイメージが幻想のように往来するが、結局何に感激したのかは言葉にならない。「句読点の連続、中身の文章は自前で充填する…」なんて文章を、何十年ぶりかで思い出してしまった。音楽だけではない。「耳がない」者にとって、いろんな分野で同じような体験をするのである。たとえば、カトリック系の神秘家の詩。十字架の聖ヨハネの「愛の炎」を読んで、心は燃え、感動する。だが、何についてどう感動しているのか、聖ヨハネの解説を読んでもはっきりしない。わたしには、「耳がない」のである。