inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

映画好き

  亡くなった夫は、映画大好き人間であった。新婚早々、夫婦喧嘩で小遣いを使いすぎるとなじったところ(とても貧乏だったので)、「映画だってこの頃は月に1回くらいしか見ていないぞ!」と言いかえされたのには驚いた。年に2回か3回映画館に行く程度の私には、感動的であった。何事もまず書物を手がかりに考えるものと思っていたので、映画は単に娯楽に過ぎないと考えていた。ところが、夫は映画に表現された庶民の哀歓を手がかりに人生や信仰について発想するのである。彼が20代のころ教会の週報に投稿した「ライムライト」の感想文を読んで、こんなに直に映画から発想する感性に驚いた記憶がある。

 家庭礼拝でマタイ伝を講読している。イエスが行われた癒し奇跡を連続して読んでいくと、癒された人々がすべて全くの庶民であり、信仰的思索からイエスを求めたのではなく、自分自身や子供の病や不具、人から嫌われ遠ざけられる罹病といった人生の挫折や困窮の中から、藁をもつかむ一途さでイエスに助けを求めたことがわかる。肉体的な苦痛や不具、社会から疎外され、愛されない、といった生の挫折に追い立てられイエスに駆け寄り、すがりつく。そのような情景が映画のシーンのように浮かんでくる。

 私自身、外面的な困難(病や貧乏や権力の抑圧など)には信仰とは別に対処し、内面的な問題は信仰によって解決しようという傾向がないだろうかと反省した。そんなデスクに座っているような求め方には、自分を投げかける一途さがない。救いを求めてイエスに駆け寄り、ひれ伏して、はじめて彼を「主」と呼ぶ者となるのではないか。そんなことを福音書を読みながら考えた。

 映画には、行動で人間全体(人との関わりや肉体と精神)を表現する感性がある。映画を楽しむ庶民の心のまま、福音書のイエスに出会ったであろう夫を懐かしく思う。