inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

モルトマン神学

  このブログにしばらく投稿しないでいたら、はてなブログから励ましのメールを戴いた。日記代わりにもなるから、近況その他そのとき考えていたことの記録としても投稿を続けなさいとのこと。夫の説教遺稿の投稿にかまけていたが、私自身の記録としてブログを利用するのも意味ある作業だと気づいた。

 そこで、1999年6月6日の教会週報に投稿したJ・モルトマン神学講座出席報告が出てきたのでブログに投稿することにした。

 20年近く経っているが、私自身はその頃からあまり変わっていない。生活に追われ信仰的にも勉強不足のままの自分であった。寡婦となり、生涯の終わりも見えてきた現在、いよいよ真剣に主を見上げることをせねばと思っている。


モルトマン神学について

 信濃町教会を会場としてときどき神学関係の講演会が開かれることがある。今回、モルトマン神学入門講座があり、3月から5月まで月1回ペースで3回開催され、出席した。講師は、蓮見和夫先生で、20名前後の少人数ではもったいないほど充実したお話を伺がわせていただいた。しかし、質問が少なく、討議が深まらない感があった。私自身もそうだが、ひとりで勝手に読んでいるだけで、内容に反応して発言することは苦手の人がおおいのであろう。以下、必ずしも講座の報告ということではないが、モルトマンに啓発されて改めて考えるようになったことなどを記してみたい。

(1)宇宙的終末論
 正直な話、終わりの日に神の正しいお裁きがあり、正義が明らかになり、不義や不公平が取りのぞかれることは、幼い頃からの信仰であった。そして、それはキリスト教の信仰のあるなしにかかわりなく、ほとんどの人の希望ではないだろうか。しかし現在、教会のなかでさえ、そんなことをそのまま表明するのは憚られる雰囲気がある。使徒信条を唱えても、キリストの再臨、体のよみがえり、永遠の命を信じるということは、よくわからないままではないのだろうか。イエス・キリストの復活は信じても、私たち自身の復活が信じられないなら、キリスト教の希望はどこにあるのだろうか。
 再臨や永遠の命を個人の実存の問題に「非神話化」してすり替え、現代人の納得できる教義にするのはいかがなものか。実存がどんなに真剣な問題であっても、不具や病、貧困や差別の満ちているこの世界で、そんなものは豊かで健康な人だけの贅沢だと思える面がある。やはり真っ正面から、キリストの再臨を、永遠の命を、体のよみがえりを、現代の私たちの信仰として考えるべきだと思う。モルトマンの終末論に必ずしも全面的に賛成するわけではないが、少なくとも私の今まで読んだ神学関係の本の中では終末論を真直ぐにとらえている様に思う。
 それに、彼の終末論は人間だけでなく自然をも含んでいるのが新鮮である。感情を持たない自然をも私たちは愛するのだ。人間を含めた自然全体が神と共にある、そんな喜ばしい幻がイザヤ書に記されているではないか。信仰の与える正しい希望に基ずいて、社会的正義や個人の運命について思索し、祈りと忍耐の歩みをなしうる者でありたい。

(2)聖霊の問題
 モルトマンの魅力の一つは、正統派から嫌われがちな敬虔派やカリスマ運動にも理解を示していることである。癒しや聖霊体験というものは私自身には身近なものではないが、すべてをインチキとするのは間違っていると思う。イエスは病める者を癒された。近代ではブルームハルト父子の体験がある。罪のゆるしとを受けることとは比べものにならないけれど、癒しも聖霊のわざである。また、敬虔な感情なしに理性だけで信仰することは難しい。詩編に「汝の御言葉はわが旅の家でわが歌となれり」とうたわれている。歌や音楽は、言葉以上に身に染みて物事を理解させるものである。知性に劣るから感情に頼るのではなく、心の底から感動するとき、おのずから湧き上がる敬虔な感情はなんらかの形で他者に伝達可能なものである。現在、霊的な感性や感情が教会のなかで抑圧されてはいないだろうか。そのことが御霊を悲しませていないだろうか。モルトマンは、正統派神学者であるけれど、正統派教会の中にいる私たちに、異端的といわれているそうした教派の正しいよい面を教え、反省を起こさせるのである。無信仰の家庭に生まれ、出征する際にはゲーテの詩集を携えていったという、まるで日本の若者が万葉集を携えて出征したことを思い起させるような戦争体験をしたモルトマンであるから、生まれながらキリスト者として育った教会人とは違う新鮮な感覚で信仰に触れていったのであろう。

(3)フェミニスト神学との関わりほか
 私自身はフェミニスト神学に関心はない。教会の中の男性優位や教職優位はどうかと思うが女性を特に持ち上げる必要も感じていないのである。マグダラのマリア使徒と呼ぼうが使徒より一段劣ったものとしようが彼女自身の、キリストへの愛と奉仕は変わらなかったであろうし、他者からの評価など問題ではないであろう。しかし、モルトマンに感じられる水平主義(男と女・教職と信徒・ユダヤ教カトリック・ロシヤ正教との関わり)は大いに啓発される。創造者である神の前に、ユダヤ人も異教徒も、また奴隷も自由人も、ひとしくされたのであるから、あらゆる差別と抑圧に反対するする姿勢は評価されるべきである。しかし、バルトは職を追われる危険を犯してもナチスへの抵抗運動をした。モルトマンがそれほど平和運動にかかわっているかどうかは、知らない。
 キリストは律法学者の質問に対し「心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛しなさい」ということを第一の戒とされた。また、それをなし得る道を開いてくださった。私たちも、神を愛することをすべてにおいて探求すべきであり、なにかを神とかかわりない領域として残してはならない。私たち現代人は宇宙や歴史をそのような領域として、唯物的な見方のままに残してきたのではないだろうか。モルトマンを読んで、幼い日の信仰を思い起こし、新鮮な感動を覚えるのである。
 以上、非常に荒っぼいが報告としたい。」