inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「世界からの風に耐えて、自分の立場に根をおろす」

 

 あまりテレビを見る方ではない。だが先日たまたまテレビをつけ、放送大学の「世界文学への招待」という番組を途中から見た。フランス海外県サンクレールという島に住む作家のインタビューで、世界文学とはと聞かれ、「インターネットほか通信手段が多様に発展している現在、世界中からの情報がこの小さな島にも押し寄せて来る。言語・地域を超えた様々な文化・思想・政治情勢等をこの地で受けとめ、それに耐え、自分の位置と立場を明確にする努力をしている。私にとって、世界文学における兄弟とは、世界からの風を受けそれに耐え、自分の立場に根をおろする努力をしている者たちであって、言語・民族・地域を超えた友情をおぼえる」と、いった内容を語っておられた。
 番組途中からちょっと見ただけなので、正確なではないが、「世界からの風に耐えて、自分の立場に根をおろす」という言葉に、惹かれた。
 私はちっともインテリではない。今時の大学卒または院卒の人達は、英語だけでなくフランス語やドイツ語も何とかこなす人が多いが、私自身は英語をどうにか読める程度で、それ以外の外国語やまして古典語などはまったく読めない。だのに、読書傾向としては断然外国物である。勿論、翻訳が出回っているお陰であるけれど、書店の日本文学の棚には目もくれず、まず外国物の棚に向かう。友人に、あなたは日本人なのになぜ日本文学より外国物が好きなの?と聞かれ、返事に困ってしまった。
 日本人だけど、生まれてこの方、翻訳された外国文学や思想・文化の風に曝され続けてきたのだ。幼い日、親の本棚に「沙翁全集 坪内逍遙訳」が並び、その上の棚は「夏目漱石全集」「芥川龍之介作品集」などがあったことを記憶している。「沙翁全集」ハムレットを眺め、「妾」(わらわ)という漢字が「めかけ」としか読めず、オフェイリアが自分を「めかけ」と称し、ハムレットは「尼寺にいきゃれ!」なんて変な言葉遣いをする。妹に読んで聞かせ、二人で大笑いした記憶がある。それにクリスチャンホームであったから、夕食後、家族で聖書輪読会を続けていた。聖書は勿論外国物である。また、時には父がその時読んでいる本を家族に朗読してくれた。多くはドストエフスキー「カラマゾフの兄弟」などであり、「ゾシマ長老の年若き兄」のくだりなど、米川訳で感激して聞いた憶えがある。これも外国物。子供のころ買い与えられた本は、「ゼンダ城の虜」「秘密の花園」「ジャン・クリストフ」「赤毛のアン」など、ほとんど外国物が多かった。吉川英治吉屋信子の作品もあったが、惹かれたのは断然外国物であった。また夏目漱石等の近代日本文学も、外国文学の影響なしに考えられないと思う。
 結局、今に生きる私たちに日本文学と外国文学の境など存在しないのである。勿論、原文ではなく翻訳によるのだけれど、一庶民の私でさえ地域や時代を超えた文化・思想の風に曝され続けている。最も肝心なことは、自分の信仰が遠いパレスチナに発したキリスト教だと云うことである。イスラエルの歴史と、イエスの時代の政治情勢、などを聖書を読む毎に、繰り返し思い起こすのである。
 そして、今の時代に日本という地域に生きる私が、欧米の文化に押し流されることなく、自分の位置・立場からキリストに従う生き方を模索している。「世界からの風に耐えて、自分の位置に根を下ろす」という言葉を、文学を超えた生き方の問題として身にしみて聞いたことであった。