inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

音楽と言葉

 30代の頃、アルノンクール&レオンハルトの「バッハカンタータ大全集」というレコードに図書館で出会った。古楽器の演奏による物だが、それまで体系的に教会カンタータを聴いたことが無かったので、大いに感激した。1巻づつ借り出して、夢中になって聴いたが、何しろ教会カンタータだけで200曲もあるもので、とても全部聴きこむわけにはいかなかった。それに、多忙な生活の中でレコードを聴く一時を作り出すのは難しかった。

 それでもK・リヒター指揮の教会カンタータ集レコードは購入して大切に聴いたり保管していたが、ついにCDの時代となり手放してしまった。また、連れあいの病気や仕事に追われる日々のなかで音楽を楽しむ余裕をいつのまにか失っていた。

 だが、寡婦となり一人暮らしの寂しさのなかで、もう一度聴きたくなり、再度教会カンタータ集CDを購入した。演奏はすばらしく、懐かしいテオ・アダムやP・シュライヤーが歌っている。だが、旧東ドイツの演奏でドイツ語対訳の歌詞がついていない。そこで、「対訳J.S.バッハ声楽全集」という本を購入。全カンタータと受難曲等の歌詞が対訳されており、非常に安心してバッハの声楽曲を楽しむことができるようになった。それまでレコードやCDの付録で歌詞を読みながら聴いていたが、いちいちそのレコードやCDケースを探して取り出す手間が省け、大いに楽である。

 フルトヴァングラーが「音と言葉」という本を書いていたが、音楽と言葉は離れがたく結びついている。特に声楽曲の場合、何を歌っているのか不明ではその曲を理解できない。短いシューベルトの歌曲くらいなら、憶えてしまえるが、それでもできれば歌詞を読みながら聴いた方がずっとましである。ましていろいろな曲で構成されているカンタータや受難曲など、歌詞とその音楽への共感なしではとても聴けない。

 毎週の礼拝で讃美歌を歌う。信仰は心の中のもので、実際にそれを表明するのはこの一時だけである。それ以外は、日々の祈りも食前の感謝以外は一人黙って祈る。人に混じって声をあげて歌いながら信仰を表明し確認する。「神はわがやぐら」「千歳の岩よ」など、歴代のキリスト者と信仰を同じくすることを思い慰められるのである。

 詩篇もそのようなイスラエルの讃美歌であったのだろう。音楽は失われ、歌詞だけになっているけれど、息をするように歌になるまでに神に祈り語り続けた信仰者たちの姿が目に浮かぶ。「汝の戒めは、わが旅の家でわが歌となれり」とある。魂のこもった言葉、それが歌となり音楽となる。愛をテーマにした曲や、友情や信仰をテーマにする曲は心を慰め喜びを感じさせる。せっかく音楽を聴くのであれば、よい心のこもった曲を聴いて慰められたいと願うこの頃である。