inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「私も同様に喜びの足どりであなたについて行きます。」

バッハのヨハネ受難曲の第9曲アリアが好きである。

これは、ゲッセマネで捕縛され大祭司アンナス宅に連行されるイエスの後を、ペテロともう一人の弟子(ヨハネ?)が密かについて行った(folgete)と福音書が述べられた後すぐに歌われる。

「私も同様に喜びの足どりであなたについて行き(folgete)ます。

 そして、あなたを離しません。

 私の命、私の光よ。

 歩みを促してください。

 そして止めないでください。

 あなた自ら、私を引き、押し、招くのを。」

 たどたどしい足どりで、だがどちらかと言うと喜ばしい気分で歌われる曲なので、この場面(シモンたちはどんな不安な緊張と悲しみの中で、イエスの後を追っていたことか!)にふさわしくないという人もいる。だが、受難曲は教会の中で福音書の受難記事が朗読され、個人の応答や会衆の応答としてアリアやコラールが歌われるものであり、オペラとは違う。従って、folgete(随順)という言葉を聴いた信仰者が、そこから自分の人生も、イエス・キリストに随順し御跡に従うものでありたいと思うことは自然であり、なんら場違いではないと思う。

 実際、びくびくおどおどしながらイエスの跡を追い、アンナス宅の庭まで行ったものの、ペテロはイエスを否認してしまう。実に情けない弟子たちである。だが、イエスは彼の信仰が無くならないよう祈られた。弟子たちを召し、極みまで愛し、試練にあっても信仰が失われないよう祈ってくださったイエスによって、私たち信徒もキリスト者とされたのである。曲想はびっこを引き、躓き転倒しながらも喜ばしい歩みを描写している。何より好ましいのは、あふれるばかりの喜びの調べである。イエスの御跡に従うことは、悲壮な覚悟を必要とする力業ではない。歩き始めた幼児が、手を伸ばして招く母の方へとよちよち歩きをするように、喜びに向かって、支えられつつ信仰の歩みを続けることである。

 主に従うことは、この曲のようにつたなくとも喜ばしい歩みであることを思う。