inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

シモン・ペテロ1

 クルマン著「ペテロ」を読み返した。お堅い神学書であるけれど、原始キリスト教史に関わるもので、それほど難解ではない。新約聖書でもっとも親しみを感じるペテロについて、この本に刺激されていろいろ考えさせられた。しばらく、ペテロのことを書いてみようと思う。

1.名前・出身地・ 彼の本名はヘブル語名シメオン、あるいはシモン。シモンは純ギリシャ的名前である。出身地ベツサイダはかなりギリシャ化されているから、シメオンが音の似た「シモン」に変化したのではなく、当初から「シモン」であった可能性が高い。弟のアンデレ、同地出身のピリポもギリシャ的名前である。
 イエスから呼び名あるいは渾名でケパ(アラム語で岩の普通名称)を授かる。他の弟子も「ボアネルゲ=雷の子」などイエスから渾名をつけられている。ペテロ(ペトロス)は、ケパ(岩)をギリシャ語に翻訳したもの。私たちは「ペテロ」という名をまず思い出すが、それはアラム語ギリシャ語に翻訳した普通名詞であって、固有名詞ではない。だから、「シモン・ペテロ」とは「岩であるシモン」ということになる。

 彼がイエスを神の子と告白した後、イエスは「バルヨナ・シモン、あなたは幸いである」と呼びかけておられる。このバルヨナは「ヨナの息子」の意味。一方、アラム語で「バルヨナ」はテロリストの意味だとの説もあり、その場合、イスカリオテのユダ同様に、熱心党に属していたことになる。当時のユダヤはローマの支配から脱したいと熱望する雰囲気がかなり強かった。イエスの弟子たちのなかにもイエスを「政治的メシア」と期待する者や雰囲気が存在したであろう。
 出身は漁港ベツサイダはユダヤだが、周囲は異教的であり、ここで育った者は当然ギリシャ語を話せて、ギリシャ的文化にも親しんでいたそうである。これは、後に伝道者として働く上で役立ったことであろう。もっとも、ユダヤ的にもギリシャ的にもなんら教育を受けていない「無学」な庶民(漁夫)であった。

 後にカペナウムに住居を持ち、弟アンデレ、妻・姑と同居。イエスはたびたび彼の家に滞在した。ヨハネ伝から推定すると弟アンデレやもう一人の無名の弟子と同様、洗礼者ヨハネの弟子仲間に何らかの形で属していたようである。

2.弟子集団の中での立場: 弟子集団の中で、ペテロは特別の位置を占めている。ゼベダイ兄弟や弟アンデレとともに、イエスにもっとも親密な一団に属し、アンデレとともにイエスが召した最初の弟子であった。そのイエスに親密な一団の中でも特にペテロは目立つ存在であり、12弟子の代弁者・代表者であった。イエスの弟子たちへの問いに、いつもペテロが答え、弟子たちを代表してイエスに質問したりしている。また、外部の者たちにも弟子団の代表扱いされ、宮の納入金を集める者がペテロに問いかけている(マタイ17:27)。

 福音書はすべてペテロを弟子リストの最初に挙げ、マルコ伝では空虚な墓でみ使いがマリヤに「弟子たちとペテロとのところに行って、こう伝えなさい。イエスはあなた方より先にガリラヤにいかれる」と、わざわざペテロを別扱いしている。

  特に忘れがたいのは、イエスがペテロにいわれた「シモン・シモン、見よ、サタンはあなた方を麦のようにふるいにかけることを許された。…あなたが立ち直った時には、兄弟(弟子仲間)を力づけてやりなさい」という言葉である。つまり、イエスご自身からもちりぢりとなる弟子たちの再結集を期待された人物であったのである。

 だが一方、「岩」どころか人間的な弱点をさらけ出す人物であった。感激のあまり湖を歩き出すがすぐ恐怖に襲われたり、忠誠を誓ったその晩にイエスを否認し、激しく泣くのである。このようなペテロを、「岩」として、イエスは教会をお建てになる決断をされたのであった。