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読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

使徒パウロ5、伝道旅行とエルサレム教会への献金、ローマへの護送・殉教

伝道旅行とエルサレム教会への献金、ローマへの護送・殉教
 エルサレム・アンテオキア両教会は、ユダヤキリスト者としてそれぞれ、ユダヤ人・異邦人伝道を分担することで合意が成立した。だがパウロは、(アンテオキア教会ではなく)自分こそがエルサレム教会と分担して異邦人伝道を担う使命があるとの自覚のもと、独立した伝道活動を開始した。ローマの州単位に拠点となる教会を設立し、第二回伝道旅行中に、すでにローマを拠点として帝国西半分を目指す計画を抱いたようである。
 彼は、まだ教会が設立されていない場所を選んで宣教し、主に異邦人を中心とする「ユダヤ人も異邦人もない」教会を設立していった。
 だが一方、イエスの死と復活の出来事と結びついたエルサレム原始教会と、設立した諸教会とを結びつけることも重要であった。それは、イスラエルキリスト教の連続性を確保するためであった。しかし、ユダヤ人たちには偏狭な愛国心から律法重視熱が高まっており、律法からの解放を唱える者を迫害する機運が起きていた。同時に、ローマ帝国ではキリスト教弾圧も始まっていた。パウロエルサレム教会への献金は、こうした情勢からすんなりと受け取られるのが困難であった。主の兄弟ヤコブは、この困難を回避するためパウロ個人としての敬虔な行為(ナジル人への喜捨)を勧めた。パウロが神殿でそれを行おうとしたところ、律法からの解放を唱えるキリスト教伝道者だと彼を知るディアスポラユダヤ人に見とがめられ、騒動となり、ローマ軍に逮捕され、カイザリアで囚人となってしまう。献金は失敗。彼もローマに上訴し、ローマで殉教する。
 以後、年表形式で伝道旅行とその間に執筆された書簡をまとめた。それぞれの書簡を読む上で、参考にしたい。これでパウロの生涯と活動のまとめを一応終える。
(49年)アンテオキアの衝突後まもなく出発、キリキアの峡門経由タウルス山脈を越え、アナトリア高原を西に
①デルベ、ルステラ(第一回伝道で訪問)を再訪、ルステラからはテモテが同行
②フリュギア・ガラテア地方(ガラテヤ教会設立…病気のため余儀なく滞在)
③港町トロアス(マケドニア人が伝道を懇願する夢を見て、マケドニアに向かう)
⓸ピリピ教会設立、官憲に捕縛されてテサロニケに去る
⓹テサロニケ教会(異教徒出身者が中心)設立、ピリピから何度か献金あり、また、自ら働いた。迫害を受けペレアに逃げる。ぺレアでも迫害され、アテネに。そこから、テモテをテサロニケに派遣。アテネ伝道は失敗し。コリントへ
(50年秋)コリント着、18ケ月滞在。(総督ガリオ)、Ⅰテサロニケ書執筆、
ローマを追われてきたアクラ・プリスキラ夫妻と出会い、彼らの家に滞在。
⑥コリント教会設立、ユダヤ教の会堂司クリスポ・ソステネ等も入信し、ある程度ユダヤ人にも浸透。だが、教会外ユダヤ人から総督ガイオに突き出される。
(52年春)コリントからエペソ経由、エルサレムへ。設立した上記6教会とエルサレムとの結びつきを図るが、失敗。アンテオキアに戻る。
第三回伝道旅行
(53年)アンテオキアからガラテア・フリュギア経由エペソへ
 (53年秋から55年)エペソ滞在(約二年)エペソ教会設立 
          Ⅰコリント書、ガラテア書執筆
     入獄、ピリピ4:10以下、ピリピ1~2章、ピレモン書執筆
          コリント教会との関係悪化、
       Ⅱコリント1:3~21、2:14~6:13、7:2~4執筆
     コリント「中間」訪問(不当な仕打ち受ける)、
       Ⅱコリント10~13章執筆
(55年)マケドニアへ。コリント教会との関係好転、
       Ⅱコリント1:12~2:13、7:5~16、8~9、執筆
(55~56年)コリントへ、3ケ月滞在。ここを拠点としてエルサレム献金を集結。
     ロマ16章(エペソ教会あて)、ピリピ3章、ロマ書執筆
(56年春)献金を携えてエルサレムへ。逮捕される。
(56~58年夏)カイザリアで未決囚(総督はフェリクス、その後フェストゥス)
(58年秋)皇帝に上訴、ローマに護送
(59年頃?)処刑