inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

メサイア第三部 キリスト再臨

 今年もまたクリスマスが近づいてきた。ここ数年、この時期になると掃除のアルバイト仲間とヘンデルの「メサイア」を聴きに行く。今年は私がチケットを買う当番で仲間と自分の席を確保した。

 メサイアは子供のころからなじみの曲で、クリスマスが近づくと聴く音楽だと思っていた。有名なハレルヤコーラスよりも、むしろ美しいソプラノ独唱「How beautiful are the feet of them that preach the grospel of peace.…」が好きだったことを思い出す。

 中学・高校と通ったミッションスクールで、毎年クリスマス礼拝にメサイアから抜粋した合唱が歌われるため、6年間、少しずつ何曲かを練習させてもらって、この曲がより身近なものとなった。卒業から何十年もたった今も、この曲を聴くとそのころを懐かしく思い出す。真摯な音楽に対する喜びと尊敬の気持ちを植え付けてくださった先生方にに心から感謝している。

 だが、夫を亡くした昨年、いつもの通り仲間と演奏会にいって、改めて第三部に心を打たれた。第一部は旧約の予言からキリスト降誕まで、第二部はキリストの受難と復活、そして昇天までであり、第二部の終わりにハレルヤコーラスが歌われる。ところが第三部は現在の私たちのキリスト待望(再臨待望)が主題となっている。

 よく葬式で朗読されるヨブ記「私は知る。私を贖う者は生きておられる。彼はついに(黄泉の)塵の上に立たれるであろう。私は肉を離れて、主を見るであろう」で第三部が始まる。それは、死を超えて神を信頼するヨブの信仰を表現しているが、ヨブ記では神ご自身が直接回答してくださることでヨブは満足した。だが、この歌詞では、ヨブの待望に応えるのは、「なぜなら、実際に、キリストは死者の中から復活され、眠りについた人たち(死者)の初穂となられたからです」(Ⅰコリント15:21~22)とキリストの復活という具体的な出来事である。これはパウロが、復活を否定する論敵(肉体の牢獄から魂が解放されることが救いと考える人々であったようだ)に反論した言葉である。だが私は、自分が信仰し待望する内容を改めて指摘された気がした。テレビのチコちゃんではないが「ぼーっと生きてんじゃないよ!しっかり(キリスト再臨を)待ち望め!」である。

 キリスト以外まだ誰も復活していない。だが、キリストの復活は人間が死の支配から解放されたという出来事なのだ。償われない死を死んだのは、ヒロシマナガサキアウシュビッツの死者たちだけではない。人間全体が罪と死の支配に苦しんでいる。身近な者の死を体験し、自分の生涯の終わりも視野に入ってきた今だからこそ、いっそう、キリストの義により希望が与えられたことを意識し感謝せねばと思った。

 音楽は、「終わりの日に、最後のラッパが鳴る時に、死者は復活し朽ちない者とされ、生者は朽ちない(死なない)者に変えられる」と歌っていく。「死は勝利に飲み込まれた」、「イエス・キリストによって勝利を賜る神に感謝しよう」と合唱される。そして「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できますか。…人を義としてくださるのは神なのです。」有名なロマ書8章をソプラノが歌って、最後の「Worthy is the Lamb that was slain.…」とアーメンコーラスになる。最後のコーラスは、旧約や新約の信仰者たち・亡き愛する者たち、私たちの死後も生きる人々と声を合わせるような気持ちで聴いた。

 しかし、その後もまだじたばたと生活は続く。年があけて来春には、孫が小学生になり、学童保育のお迎えをする「おばあちゃん」生活がはじまる。今年の「メサイア」演奏を、仲間と共にどう聞くのか楽しみである。