inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

亀によせて

 松本清張の「砂の器」に、亀田という地名が出てくる。亀のつく地名はすごい多い。かくいう私の住まいもそうで、街頭は亀甲モチーフ、街角には美しくもない亀の像が沢山置いてある。なんでこんなに「亀」は人気なんだろうか。

 人名や屋号にも、最近はともかく少し昔まで「亀」がつくものは多い。沖縄の瀬長亀次郎氏とか、日本画家の小倉遊亀など、枚挙に暇がない。吉兆を呼ぶ動物とされているのだろう。

 しかし亀は、まず美しくない。そして鈍重で、泥まみれでのそのそ動き、憧れの対象になることはないといっていいだろう。だが、決して憎まれることもない。頭が良くてスマートだとは言えないが、いじめられたり馬鹿にされたりしても、あんまり感じないのだろうか大して気にする様子もない。怒りや復讐に駆られた「亀」なんて想像もつかない。概して平和的で穏やかな性格なのである。それでいて、「何とおっしゃる、ウサギさん。そんならお前と駆け競べ」と言うほど、とんでもなく楽天的で自信家である。ウサギどころかアキレスとだって、駆け競べしてやる気概を持っている。相手が本気で昼寝もせずに競争したら負けるに決まっているが、とにかく一心不乱に目的地にたどり着くという志操堅固さだけは誰にも負けない。

 だが、浦島太郎に助けられると、お礼に竜宮城の招待を仲立ちするという感謝も忘れない性格である。ことに瞠目に価するのは、陸上と打って変わった水中での泳ぎの優雅さである。いかにも楽しげに、悠々自在に水中を舞う。その姿は、ハワイ柄の代表的モチーフになるくらいである。

 そして、その甲羅は、神的ロゴスの産物と思える不思議な幾何学模様に飾られたり、美しい鼈甲で、その裏面には吉祥模様の青海波が現されていたりする。こうしてみると、神仏の加護あつい動物だと、昔の人は思ったことだろう。

 現代人にとっても、砂の中で孵ってまだ海の存在も知らない筈のウミガメの子が、不思議な感覚で海の方角を捉え、そちらに向かって過たず進んでいく本能は、驚異である。とはいえ、亀はありふれた庶民的動物で、そこらの池でのんびり甲羅干ししたりする姿をよく見かける。丈夫で長生きである。

 宮沢賢治の「雨にも負けず」の詩ではないが、「褒められもせず、苦にもされず」いつも悠々とマイペースで暮らしている。また、「荷を負う」労苦を厭わず、争いを好まない点も似ている。「そういう者に、私はなりたい」とまでは言わない(言ってもなれないだろう)が、スマートさも美しさもなくても、その目立たない美徳とタフさに少しばかり尊敬を覚え、親しみを覚えるこの頃である。