inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

クラナッハ:ザクセン公ヨハン・フリードリヒの肖像

 少し前だが、クラナッハ展を見に行った。クラナッハはルターと親交があり、ルターの肖像画を描いている。会場では、エロチックと評判のある裸体画や敵将の生首を前にした烈女ユディトの絵の前に人だかりがしていた。だが、私が注目したのは彼の主君、ザクセン公ヨハン・フリードリヒを描いたものであった。
 彼こそは、ルターが「マグニフィカート」(マリアの賛歌講解)を捧げた「高貴にしてやんごとなき、仁慈に富みたもう君主、保護者、マイセンの領主、チューリンゲンの方伯、ザクセン公」である。彼は少年のころからルターを尊敬し、1520年ルターに破門状が発せられたことを知ると、伯父の選帝候フリードリヒ賢公にルターのとりなしの手紙を書きその写しをルターに送った。そのとき彼は17才であった。長じてプロテスタント側の有力指導者となり、ルターの著作集の出版に努力した。「マグニフィカート」は18才のこの若き貴公子に捧げられたものである。
 そこで、私はこの「若き貴公子」がどんな風貌をしておられたか興味津々で眺めて見た。すらりと姿の良い「プリンス」を期待していたのだが、画家が愛情をもって描いた彼の姿は、いかにもドイツ騎士らしい、気品はあるががっちり逞しい男性であった。
 彼の宿敵、カトリック側のカール5世のほうが、むしろ期待した「プリンス」に近かったようである。
 しかし、宗教改革ののろしが上がり、民衆に聖書の言葉が伝えられたこの時期、政治的駆け引きはあったろうけれど、聖書の言葉にインスパイアーされ、プロテスタントとしての信仰を貫いたこの人の生涯に思いをいたした。
 伯父の後をうけ選帝候となった彼は、最後はシュールベルクの戦いでカール5世にとらえられ、死を免れたものの、その数年後50才で死去した。彼の子孫が再び選帝候の地位に就くことはなかった。ある意味、失意の晩年であったように見える。
 だが、若い日に彼に捧げられた「マグニフィカート」ほかで、失意の日に信仰によって心を励まされるべきことを教えられた彼が、嘆きのうちに世を去ったとは思えない。特異の容貌をもったこの人の肖像を、激動する歴史の中で、激しく生き抜いた一人の信仰者として親しみと尊敬をもって眺めたことであった。