inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ペテロ3…教会を建てる土台としての岩

3.クルマンは殉教者としてのペテロについて1章を割り当てて考察している。ローマ教皇権との関係で、実際にローマに行ったかどうか及びそこで殉教したかどうかが検討される必要があるためだ。パウロ同様ペテロの殉教についても新約聖書は直接言及せず、間接的な表現しか残していない。文献や発掘調査などの検討は省いて、結論だけを紹介しすれば、次のとおりである。
 エルサレム教会での指導的立場を終え、ユダヤキリスト教伝道団の頭となった彼は、おそらく晩年になって初めてローマに来て、ここで非常に短期間(数か月?)活動した後に、ネロのもとで殉教者として死んだ。彼の墓は確認されえないが、発掘は、ペテロの処刑がバチカンの領域で行われたという記事を支持する。
4.教会を建てる土台として岩
 最後にマタイ伝16:17以下「あなたは岩である。私はこの岩の上に私の教会を建てよう…」の釈義・解釈をしている。教皇権の根拠づけとなりうるかどうかは、私のような「唯一の使徒的公同の教会」を信じるだけ者には切実な関心ではない。
 だが、この箇所の意味を牧師に質問すると「ピリポ・カイザリアのキリスト告白=ペテロのイエスを神の子・キリストと信じるの信仰」の上に教会を建てるという意味だといわれた。これがプロテスタント側の解釈のようである。しかし、そのキリスト告白は、イエスの受難予告をいさめて「サタンよ退け!」と叱責されたとおり、政治的メシア期待であり、荒野でのサタンの誘惑に近いものであったことがわかる。その誤った信仰(イエスを政治的メシアとする)信仰の上に教会を建てるなどおかしい。それに信仰一般であるなら、わざわざ岩=ケパ=ペテロと関連付ける意味はない。やはり、生前のイエスがペテロを特定して、教会の土台と指名された意味を検討する必要がある。

 ダニエル書で、この世の権力が人によって切り出されたのではない岩(神の国)によって打ち砕かれることが予言されている。岩にはエクレシア(神の民=教会)の意味がある。
 クルマンは他の福音書の同様の箇所を総合して、この発言はピリポ・カイザリアではなく最後の晩餐でイエスの死による新しい契約が語られた時点でのものではないかとしている。教会=エクレシアはイスラエルの伝統によれば、契約による「神の民」の意味であり、特にキリスト教会だけの意味だけではないから、イエスご自身の発言である可能性が高い。「羊の群れは散らされる」とゲッセマネの園で予告され、ルカにあるようにペテロに「立ち直ったとき、兄弟たちを力づけなさい」と言われた。そして最初にペテロに顕現された。以上から、生前のイエスが自分の死後に最初に信徒・弟子集団を再結集させることをペテロに委託をされたと解釈する。したがって、ペテロへの委託は教会の土台を据えるごく初期に限定される。だが、時間的に限定されたペテロらの生における、受肉ナザレのイエスが復活者であるという証言がなければ、使徒の言葉によって信じる人々(キリスト者)は生まれない。彼らの使徒的証言(新約聖書)の上に、キリストはその教会=エクレシアを建て続けることを予告された、と結論付ける。
 ナザレのイエスの地上での生が一回限りで時間的・場所的に限定されていたように、ペテロが代表する使徒たち限定された生における、受肉ナザレのイエスが復活者であるとの目撃証言がなければ、キリスト教の真理は無時間的な神話に成り下がってしまうだろう。使徒らの復活証言をもって教会は黄泉の門を打ち砕き、キリストの業を果たすことが許されるのである。
 以上、クルマン「ペテロ」を学び、私たちキリスト者も自分の人生をもって死の力と戦う復活の証人(目撃証人ではなくとも聞いて信じる証人)であるべきことを深く教えられた。