inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

使徒パウロ1

 11月に「パウロ~愛と赦しの物語~」という映画が封切りになるとのこと、教会にポスターが貼ってあった。教会の仲間と一緒に見に行くことになったので、使徒パウロの伝記をおさらいしてみようと思う。
 夫の蔵書の中で参考になりそうなものを探し、ボルンカム「パウローその生涯と使信」を見つけた。序論や付論は別として第一部は生涯と活動、第二部は使信と神学、となっている。今回は第一部を拾い読みしてみた。
1.出身と周囲の世界-回心以前のパウロ 
 パウロユダヤ教に厳格な家庭の出身である。紀元の初め頃タルソ(現在トルコ領)に生まれた。タルソは地中海交通の要所であり商業が盛んで、アテネと並び称されるギリシャ的教養の中心地であった。ユダヤ的な名前サウロを身内の呼び名とし、ローマ的な名前パウロローマ市民権をもつ者として社会的にもちいた彼は、当然十分なヘレニズム的教養を有していたと考えられる。
 当時、ユダヤ人はローマから広範な権利と保護を与えられ、ヘレニズム世界に多く散らばっていた。異教的な環境にあってもユダヤ教は高い評価を受け、異常な伝道力をもっていた。ポリスや民族国家が消滅し汎世界的になった環境で、人間は個別化され、東方から流入する密儀宗教は運命と死の諸力からの解放を約束し、多種の宗教や哲学が競争を行っていた。その中で、ユダヤ教は唯一の生ける神を信じ、厳格な律法と古い歴史をもち、偶像礼拝と道徳的退廃から決別するよう呼びかけ、将来の審判と来るべきメシアのもたらす平和と正義を告知した。その結果、改宗者を含めたディアスポロのユダヤ人はアウグストゥス帝時代に約450万人、人口の七パーセントを占める一大勢力となっていた。
 ディアスポラシナゴーグの伝道活動は、シナゴーグに集まる異邦人に唯一神信仰告白と最低限の律法(安息日、食物規定など)順守、道徳を守ることを義務づけるだけで満足した。ところが、パリサイ派主導のパレスチナユダヤ教は、より律法に厳格で割礼を受けることを絶対的な要求とした。すでにユダヤ教の異邦人伝道において、割礼問題で二つの方向が争っていたことがわかる。
 このような中で、パウロディアスポラの環境に生まれてもパリサイ派的方向(律法に厳格、割礼を要求する)に自らの進路を決め、「律法の点では責められる余地のないほど」熱狂的パリサイ人となった。彼が、パリサイ派中心地エルサエムで教育を受けたというのはおそらく正しい。ただし、使徒行伝の言う通りガマリエルの薫陶を受けたかどうかは確かではない。パリサイ人たる教育は、信仰を生活の途としないように一つの職業を選択してそれに従事することと結びついていた。パウロは、テント作り(革細工職人)となり、ユダヤ教伝道活動を開始した。
 パウロはディアスポロ出身であったにもかかわらず、ユダヤ教異邦人伝道にさいし、最も厳格なパリサイ主義(割礼要求する)に基づいて行う決心をし、実際にキリスト者になるまでそれを行っていたということは重要である。後に、割礼を強要するガラテヤの偽兄弟たちと戦うのは、決してヘレニズムユダヤ教に回帰したからではなく、彼に顕現されたイエスの「十字架の使信」ゆえにだ、ということが明らかになる。