inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

使徒パウロ4 アンテオキアの衝突と独立した伝道の再開

使徒パウロ4 アンテオキアの衝突と独立した伝道の再開

 映画を見に行く前のおさらいのつもりで始めたパウロの生涯と活動の勉強は、今までの不勉強がたたってえらくヘビーな作業となってきた。大体、日曜学校以来、使徒行伝そのままのストーリーが頭にあるので、参考にしているボルンカムや佐竹明先生の著書を読みこなすだけで大変である。だが、長年パウロの書簡を読んでいながら、彼の生涯と活動を全体的に学んだことがなかったから、一応自分なりにまとめてみたい。
①アンテオキアの衝突(49年春)
 エルサエム使徒会議で異邦人キリスト者に割礼を受けさせる必要はないという結論が出て、アンテオキア教会では異邦人伝道に一層の熱が入り、異邦人とユダヤ人が神の国の祝宴の意味をもつ共同の食事まで行われるようになった。使徒ペテロが来訪し、もともと律法から自由な考えを持っていた彼はこれに参加した。
 ところが、エルサレム教会から(主の兄弟ヤコブのもとから)人々がやってくると、ペテロは次第にこの食事に参加しないようになった。パウロにとっては「ユダヤ人も異邦人も」福音のもとで平等であることが信仰の原則であったから、彼はペテロのこの行いを信条に反して人間的なものに屈する偽行だと非難した。だが、あろうことか、律法からの自由を信じるバルナバまでそれに同調するようになり、異邦人キリスト者は取り残され共同の食事は中止となった。パウロは、アンテオキア教会で孤立する立場となり、もはや教会から派遣されるかたちではなく、最初からそうであったように、独立した伝道活動を行う決断をした。そして、彼に従ったユダヤキリスト者シラスを伴って第二回伝道旅行に出発する。
 ペテロやバルナバユダヤキリスト者らがこういう行動をとったのは、エルサレムの権威に屈しただけでなく、ユダヤ人に高まっていた愛国熱が熱狂的律法遵守の形となり、教会のユダヤ人が異邦人と共同の食事という律法軽視をしているいう噂がたてば、他のユダヤ人教会まで迫害される恐れがあったからである。だが、異邦人・ユダヤ人信徒が分離することはアンテオキア教会にとっても困った事態である。そこで、エルサレム教会と連絡をとり「偶像に供えた食物、および血抜きをしない肉を避ける」という律法と抵触しない形で異邦人との共同の食事を再開することにした。これが、「使徒教令」でありアンテオキア教会にとっては「使徒会議」に付属するものと受け取られた。ただし、これはパウロの関与しないエルサレム・アンテオキア両教会の合意である。第二回伝道旅行を終えたパウロがアンテオキアに戻ったのも、こうして共同の食事が再開されたからであった。
 アンテオキア衝突以後は、パウロは経済的にも人間的にも独立した伝道活動を行うようになった。遺された彼の書簡は、すべてこれ以後の第2回及び第3回伝道旅行中のものである。