inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

映画「マグダラのマリア」

 

 レンタルで「マグダラのマリア」という新作DVDを見かけ、借りてみた。
 マグダラのマリアは、イエスの女性弟子の一人で「七つの悪霊を、イエスに追い出してもらった」と聖書に書かれている。ということは、現代風にいえば重い精神的障害をイエスに癒されたということである。彼女はその病によって家族や社会から排斥され孤独になっていたが、癒されて後イエス一行に随行し、自分の財産で彼らの食料や身の回りの世話をした婦人である。自分の自由になる財産があるというからには、若い女性ではなくある程度の年配であったようだ。女が男性弟子に混じって随行するというのは、どういう形であれ大変であったであろう。だが、同じような女性弟子もほかにいた。彼女らはイエスの十字架死を最後まで見届け、アリマタヤのヨセフによってイエスが墓に葬られたのも見届けた。その翌日は安息日であったが、安息日があけると同時にイエスの墓にかけつけ、墓が空虚であることを発見したのもマグダラのマリアをはじめとする女たちであった。イエス逮捕と同時に逃亡し、人をおそれて隠れていた男性弟子たちと比較して、彼女たちの献身は心を打つ。
 ところが、マグダラのマリア一人が最初に復活のイエスに出会ったと言い伝えられている。彼女が空虚な墓の前で泣いていると、「なぜ泣いているのか」と声をかけられ、振り向くとイエスがたっておられた。だが、最初は気づかず、イエスの亡骸の行方を尋ねる。「マリアよ」とイエスに呼びかけられて初めて気づいて「ラボニ(師よ)!」と叫んで取りすがろうとすると、「ノーリメ・タンゲーレ(我に触れるな)」と拒絶され、十二使徒らに復活を伝えるように命じられた。
 男性弟子たちは復活を「愚かな話」と疑ったり、イエスが顕現されると幽霊だとおそれたりしたのに、彼女はおそれずに復活のイエスに取りすがろうとした。おそらくラザロの蘇生と同じように、イエスが蘇生したと思ったのではないだろうか。だが、イエスの復活は死ぬべき体に蘇生したのではなく、もはや死ぬことのない不思議な「霊の身体」に復活されたのである。「肉の身体」におられた時と同じような奉仕はもはや不要・不可能となった。彼女のイエスへの献身も変わらねばならなかった。
 だから、最初に復活のイエスに出会ったマグダラのマリアをこの映画がどのように描いているか興味深くみた。よくありがちの悔い改めた罪の女としてではなく、マリアを精神的障害を癒されてイエスに従っていった若い女としているところは新鮮に感じた。男性弟子に混じって、一行と野宿したり、放浪を共にする場面はなかなかリアルであり、女性弟子たちの行動もこうであったのかと偲ばれた。
 だが、空虚な墓の前で復活のイエスに出会った後が、いただけない。突然、男性弟子たちのところに行き、「神の国は、政治的・場所的に到来するのではなく、私達の心の中に到来するのだ」と、宣教しはじめてしまうのだ。そして、「神の国は、芥子だねのように人々の心の中に芽生え、育つ」とナレーションがはいり、マリアが女たちの中を歩んでいく場面で終わる。
 これでは、現世的・政治的神の国(神の支配)を目指す男性弟子に対抗して、女性弟子が心の中で成長する神の国という信仰を推し進めたという、どこかフェミニズム的主張になってしまう。もっと復活の証人としてのマリアにスポットをあてて、描いて欲しかったと思う。