inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

死後の生:リンドグレーン著「はるかな国の兄弟」

 リンドグレーンは「長靴下のピッピ」でおなじみの作家だけれど、私はあまり魅かれなかった。明るく、屈託がない子供(ピッピのような)なんて共感が起きなかったのだ。子供の心には、恐れや自信のなさ、迷いや混乱が存在している。もがいてもがいて、縋り付く確かな何かを探し出そうとするのが、自然な子供の姿ではないだろうか。

 しかし、川合隼雄著作集4「児童文学の世界」でこの作品の存在を知り、読んで、いろいろなことを考えた。一つは「死後の生」についてである。私はクリスチャンとして、死後の生(天国の生)を信じている。だが、天国の生活がどのようなものか、あまり詳しく考えていない。もし、一般に信じられているような、清き岸辺で愛する兄弟姉妹と共に、賛美歌を歌い続けるような生活だとしたら、おそろしく退屈なのではないだろうか。むしろ、藤井武先生が語られたように、思う存分自分の天職に励み続ける(牧師なら説教し伝道を続けるなど)働く生活だというほうが魅力的である。

 イエス様は復活されて、神の右に座し、そこで安楽の生活をしておられるわけではない。今もなお、世界の悪と罪に対し「勝利の上に勝利を」重ねる戦いに従事しておられる。つまり、働いておられるのだ。

 だとしたら、私達人間の肉における死がそのまま安楽な生活(天国)への転生ではなく、第二の戦いへの転生ではないと誰がいえるだろう。主が最後の敵(死)を滅ぼすまで戦っておられるなら、主の僕たちもまた、安楽にではなく主に従って戦うべきではないだろうか。またそうありたいと願うのではないだろうか。

 この作品の主人公カール(愛称クッキー)は結核病みで足に障害のある10歳の少年である。寡婦の母が縫物で生計を立てており、その顧客が彼が聞いていないと思って彼が余命いくばくもないことにつき母を慰めるのを聞いてしまう。クッキーには、彼と対照的に、美しく賢く非の打ちどころのない兄(ヨナタン)がいた。母を苦しめまいとして何も言わなかったクッキーも、この兄に死への恐れを訴えて泣く。兄はこういう。「(死は)恐ろしくないよ。墓に横たわるのは、君の抜け殻だけなんだ。君はナンギヤラに行く。そこは、野営の焚火と物語の時代なんだ。そこでは、君はすっかり元気になり、やりたかった冒険を思いきりできるんだ。ここで咳をして苦しんでいるより、いいじゃないか」。

 クッキーは、ちょっとそこに行ってもいい気がした。だが、それでも一人ぽっちで、大好きな兄と一緒にいられないなら心細いという。兄は、そこでの時間の流れは地上とは違って千年も一日のように感じられるから、君はちょっと待てば僕にまた会えるんだという。だが、彼は暗い顔をして付け加えた。「だけど僕は、大好きなかわいいクッキーなしで地上で何年もくらすのか!」。

 しかしそうはならなかった。火災が起き、兄は、弟を助けようとして火に飛び込み、弟を背負って3階から飛び降りて死ぬ。町の人々は、兄を称賛してヨナタン・レヨンイエッタ(獅子の心をもったヨナタン)と呼んだ。だが、弟クッキーは負い目と孤独に打ちひしがれる。そこに、ナンギヤラにいる兄の声が聞こえる。「僕がここに来たら、一軒の家が待ち受けていた。そこは桜咲く谷の騎士屋敷で、表札はレヨンイエッタ兄弟となっている。だから、僕たちは一緒にそこにすむんだ!」

 クッキーはそれを信じ、安らかに死ぬ。気が付くと、騎士屋敷の前にいて「レヨンイエッタ兄弟」の表札を読んでいた。兄弟の出会いは、感激と幸いそのもので、感動的である。「顔と顔を合わせて」主にまみえる時、キリスト者もこうであろうか。クッキーは完全な健康体となり足の障害もなくなっていた。素晴らしい自然と人間たちのいるナンギヤラも、しかし天国ではなかった。裏切り者がおり、太古の怪物とそれを支配する者との戦いが始まったのである。多くの苦難の戦いの末、太古の怪物も支配者も滅びるが、ヨナタンも怪物の毒に中てられて体が動けなくなってしまう。ナンギヤラで死んだ者はナンギリマに行くという。そこは、焚火と楽しい物語の時代で、喜びにあふれているという。ヨナタンはそこに行くことを願う。だが、体が動かないからどうすることもできない。一方、クッキーはもう二度と兄と別れたくなかった。たとえ地獄であろうとも、愛する兄と一緒にいたい。だから、兄をナンギリマに行かせるために、兄を背負って自分も高い崖から身を投げる。「僕の勇ましいクッキー・レヨンイエッタ、怖いのかい?」兄がいうと、クッキーは「怖くても、僕やるよ。…ああ、ヨナタン、光がみえるよ。光だ!」。ここで、物語は終わる。

 冒頭のクッキーと同じように、障害や病・戦争などで苦しく短い生涯を送らざるを得なかった者たちの魂は、死後、ナンギヤラ(「難儀やら」と連想してしまうが)のようなところに行き、そこで自分が送りたかったような冒険と戦いの生を生きられるのではないだろうかと、ふと思ってしまう。主を愛し、主と共に戦い、主に自分の命を捧げる生が(それこそ生きがいある生活ではないか)、自分のことでのみ苦しむ生(宮沢賢治の妹トシは「永訣の朝」でそういった)を終えた死後に待っているならどんなにうれしいだろう。キリスト者は、ただ讃美歌を歌うだけの、安楽生活を願ってはいない。より多く愛せることを、願っているだ。