inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

近代短歌100選を試みて

 

 娘に、短歌100選を思い立つなど素人の怖いもの知らずと云われ、まさにその通りだと思い知っている。

 きっかけは、日本人なら誰でも(日本人ならと云う言葉は、外国籍の人を排斥するようでいやなのだが)生活の折節にふと思い出す和歌を、母であり祖母でもある私の心に浮かんだものを選んで書き残し、子供達に伝えたいと思ったからである。

 そこで、言葉と感覚の分かりやすさから、近代短歌に絞ってみた。すぐに沢山思い出せるのは石川啄木である。早春、柳の木を見かけると、「やはらかに柳あおめるの…」が思い出されるし、上野駅に降りれば「ふるさとの訛りなつかし停車場の…」を思う。

 しかし下の句「泣けとごとくに」とあるのはなぜか。啄木の実家が故郷で寺の住職の職を追われた次第などある程度理解していないとわからない。また、各地のお国言葉というかいわゆる訛りも現在では消えつつある。変貌した上野駅では、時代の変化を思ってしまう。

 さらに、近代と絞ってその狭さを痛感した。数限りなく短歌は存在し、それぞれ素晴らしいのだが、まだ教科書にも載らない最近の短歌は「誰でも知っている」には当てはまらない。やはり記憶の中に、山上憶良和泉式部良寛西行などの歌は、欠かせないものとして存在する。かえって近代のものよりも分かりやすいのだ。近代短歌を生活の折節にふと思い出すなど、よほどその道に通じた人であろう。詠まれた題材も、戦争体験から来るものや、愛別離苦など、暗く鋭いものが多く、読むのがつらい。

 そして現代短歌となると、私にはほとんど無縁である。皮膚感覚のような些細な気持ちの揺らぎを歌ったものなど、鈍感な私にはついていけない。それよりもむしろ、ありふれた生活雑歌というか、現代の生活における感慨を歌ったもののほうが共感できるのだ。生きとし生けるもの全てが歌をうたうという。自分と同じように限られた命を生きるものの歌を感得し、共鳴する心が短歌の根底にあるように思う。

 よい歌を心に蓄え、折々には自分でも短歌に心を託してみる。自分で作った歌がいかに平凡であっても、気持ちを外に表すことは自分を客観的に顧みる助けになるし、精神衛生的にもよいことだ。「日記代わりに」とはよく聞く言葉であるけれど、実践すれば正確に自分を表現する訓練となり、また慰めとなるに違いない。

 というわけで、近代短歌自家選は当分お手上げとなり、2・3の友人に追補をお願いしている。吉野秀雄、土屋文明ほか、気にかかっていても私の選に入らなかった名歌を教えていただけることを願っている。