inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

藤井武著「羔羊の婚姻」

藤井武著「羔羊の婚姻」
 藤井武は、内村鑑三の弟子で無教会派の独立伝道者であった。彼は石川県金沢市の出身だが、父の東京赴任に伴い上京。一高・帝大出のエリートである。卒業後、4年間内務省官僚として勤務したが、キリスト教伝道の志やみがた辞職して、内村の助手となった。学生時代に、親の取り決めた金沢市の名家の娘と婚約、卒業と同時に結婚した。恋愛結婚ではなかったが、彼は一目で彼女を愛した。彼女も彼の導きでキリスト教信仰に入り、世にも麗しい家庭を築いた。伝道の道に進むこと、独立伝道の開始、ほかすべて彼女の賛成と協力があった。その彼女が5人の子供達を残し、30歳になるやならずで逝去した事は、藤井を打ちのめした。祈る力も生きる力も失せたかと思える時、彼女の葬儀で恩師内村が語った「以後、彼女は天にあってベアトリーチェがダンテを導いたごとく、彼を導くでありましょう…」が胸に蘇った。
 天にある彼女と地にある自分が一体となった二人の合唱として、神を讃美する歌として書き始められたのが「羔羊の婚姻」という長詩である。彼はミルトンの「失楽園」を翻訳しており、構想のヒントとした。パウロの「清き乙女として、ただ一人の男子キリストに娶さんが為に…」や黙示録の「羔羊の花嫁たる教会」から、創造の目的を神の独り子がその花嫁なるエクレシアと偕に神を讃美することと捉え、創造の初めから完成に至る壮大な叙事詩である。三部に分かれ、上篇「羔」は創造から旧約時代を経てバプテスマのヨハネを先駆けに独り子が受肉と、十字架と復活までのイエス伝。中編「新婦」は花嫁たる教会(エクレシア)の成長と放浪、つまり信徒たちの歴史を語る。使徒達から教父、教会の堕落や、アウグスティヌスの神の都の思想、アシジのフランシスやダンテ、宗教改革からミルトンやカントほか、世界史での出来事。そして最後に日本に到来したこと、およびその堕落。そして新郎キリストの来臨を待つ万物の呻きなどを取り上げている。下編「饗宴」は、黙示録を歌い、最後の時至らんとする大いなる幻を題材としている。それぞれ第一歌に、天にある夫人への著者の思慕が歌われていて、感動的というより胸に迫るものがある。
 私は、剥き出しの感情に弱い。だから、あまり激しい感情にあうと慌てて気を逸らして、ほかの事を考えようとしてしまう。従って、ミルトンの「失楽園」(わざわざミルトンと断りを入れるのは、殆どの人が渡辺淳一の「失楽園」と取り違えるからである。)を読む際に、藤井先生のミルトン研究を参考にしたが、この代表作は敬遠してしまった。大地と踏みしめ、大気と呼吸した妻を、人生の途上で失った夫の嘆きは、夫を失った妻の嘆きとは比べものにならないようだ。そのような経験は多くの人がしているが、藤井先生の嘆きはまた度外れであった。だが、彼はそれを昇華させ、絢爛たる文章で雄大なる信仰の詩を生み出したのである。
 市川喜一先生のヨハネ伝講解を読んでいて、イエスを「世の罪を負う神の羔羊」と洗礼者が呼ぶ箇所の講解で、この作品を取り上げておられる。そこで、気を取り直して、主にミルトンの「失楽園」と較べつつ読み返している。
 感想文など、軽々に書ける作品ではない。だが、ミルトンの作品がサタンの活躍に多くを語るに対し、彼は「愛」について多くを語る。上篇第二歌、父なる神が独り子に対し「49愛は堪えない、絶対の孤独に、ひたすらなる自己充足に、我をささぐべき者の不在に。50完き永遠の愛はひとしく、まったき「我ならぬ我」をもとめる、よびかわすべき永遠の「汝」を。…73ああ汝のゆえに愛は飽き足り、また汝のゆえに愛は渇く、何をもてか汝を祝福しようと。」と語ると、子は讃美を偕にする伴侶を願う。父は「106いとうるわしき佳耦(とも)を…、汝の新婦として、体として」と人間の創造を決意されると、子は「124ああ汝の合せ給うべき佳耦、みてのわざなる聖き花嫁、わたしの愛のゆきめぐる体!」とまだ創造以前から人間に対する愛を語る。藤井先生が如何に純潔な愛の理想を抱いていたか垣間見る思いがする。
 ミルトンの「失楽園」では、失意のアダムを楽園から追い出す前に、天使ミカエルがアダムを励まして旧約からキリスト到来までの幻を見せる場面がある。だが、旧約の歴史を非常に省略しており、申し訳ないが少々退屈である。ところが、「羔羊の婚姻」はこの場面を、アブラハムのイサク奉献、燃える柴、などそれぞれのエピソードで綴っていて、それぞれが情感豊かな聖書の講解であり、胸を躍らせて読んだ。洪水で滅ぼされる人類が、我が子を諸手で水の上に差し上げようとする描写など、いままで滅ぼされる人々を哀れと描いたものを呼んだ事がないので、心に残る。
 また中篇は、アタナシウスやアウグスティヌス、ローマ教会の堕落と宗教改革、日本への信仰の渡来など、キリスト教史のエピソードが歌われ、ことに日本の現状について預言者の如く叫ぶ。ことに第33歌「118みよ、東風にむらがり翔る、蝗の如く、空を蔽うて、機の集団はたちまち顕れ、121鳴とどろくや雷のごとく、火を吐きさくや雷のごとく、復興の府を灰にしてゆく。…127審判は必ずきたるであろう、併し神の憐憫のゆえに、日本は滅びをはらぬであろう。」など、B29襲来や敗戦を預言するごときである。最後に、①天地万物の呻き、②花嫁の呻き、③聖霊の切なる呻きのマラナ・タをもって花婿キリストの到来を待ち望む歌で終わる。
 下篇「饗宴」は、黙示録の幻を用いて、いよいよ花婿の到来すべき再臨の預言を歌って居る。そして、いよいよ自分が天の花嫁と一つになるべき時を予感する。そしてこの詩の完結を待たずに、著者は天に召された。
 このような雄渾な信仰の詩が、日本に存在することに感動を覚える。ミルトンは清教徒革命の失敗の失意の中で「失楽園」を著し、「摂理」をしるべに歩む人間の運命を描いた。藤井先生は、伝道の労苦と困難、そして愛する者を失った人生の厳粛の中から、神の人間への審判と愛を身をもって体験し、伝えてる。

 現在、日本も世界も、多くの大災害や疫病に立て続けに襲われ、神の笞を味わっている。審判のラッパが、鳴り響いているのではないか。信仰を心の中の個人的なことと捉える御利益宗教とせず、正義と愛が満ちあふれる神の国を心底乞い求めつつ、「信仰を抱いて」死ぬ希望に生きねばと思う。