inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

死後の生活、復活まで

 最近、いよいよ私も老年に入り、死後の人間のありようについて思いをいたすようになった。かかりつけのお医者様に、まだ後20年以上生きるんだからその気で頑張れなど言われると、ヨタヨタヘロヘロで老残を生きるのかとうんざりする。ま、成り行きに任せるしかない。ただし、生涯教えられてきたとおり、信仰をもって生も死も受け入れられるよう、覚悟してしっかり聖書を学ぼうという気にはなる。

 人は死んだら直ぐ、天国(または地獄)に行くのだろうか。子供の頃はそう信じていた。しかし、聖書の教えるところでは、キリストが再臨され、死者は蘇り、万物が更新される「終りの日」があり、その時、キリストが復活の体で生きておられるように、信徒たちもパウロがあんなにも希望した「身体の贖い」を受けて、復活の身体に甦るとされている。だから、その時までは、「身体」なしの霊魂として死者は存在することになる。しかし、それはパウロの言う「身体を離れて、キリストと共にある」存在であり、信仰によってではなく直接主を見る歓喜に溢れた生であろう。イエスと共に十字架につけられた罪人の一人に「あなたは、今日、私と共にパラダイスにいるであろう」とイエスは告げられた。と言うことは、死後直ちにパラダイスにある存在に移されると言うことである。だから、死んだら最終的な天国即ち神の国の存在に移されるのではなく、平安と喜びに充ちたパラダイス的状態に移されるのである。そうでなくては、この地上の悲惨をほったらかしにして、別の所に天国があるようではないか。聖書は、万物が神の子達の自由に与るという最終的な神の国の希望を語っている。だから、中間状態として死後直ちにパラダイスに移されると考えるのが正しいようだ。

 ルッターは、死後終りの日まで意識のない状態であろうと云っているが、それはちょっと違うと思う。天に召された方々も、地上にあった時のような活動状態ではないが、少なくとも祈りにおいて地にある者達と交流があるように思える。愛する者の墓前において、自ずから語りかけないだろうか。また、なにかの折りに彼らからの励ましを感じないだろうか。だから、面識あり地上で交流のあった者達と、何らかのかたちで地上にある者と天にある者の交流が残っているように思う。これは特に信仰篤いからではなく、普通の人間の感覚ではないか。

 では、その中間状態において祈りのほか、主に何をしているのだろうか。これは、私の想像だが、認識の学習をするのではないか。おぼろに感じていたことを、直接対面するように知る。どうして自分はこんなに頭が悪くあるいは障害をもった存在として生きねばならなかったのか、など喜びと感謝をもって納得し、それによって神を讃美することができるのではないか。勿論、地上にあって信仰によってそうした認識に達する人々も存在するだろうが、私のような小信仰の者は死後パラダイスにあって改めて信仰と認識を深めさせて頂けることを期待したい。

 これまで死後直ちに地獄にのコースは考えてこなかった。なぜなら、主は「罪人が一人も滅びずして、永遠の命を得る」ために世に到来して下さったのだから、肉体において生きるにしても、死後何処に行くにしても、主を信じようと思うからである。親鸞はたとえ地獄に落ちようとも法然上人を信じると云った。それなら、主の復活を信じるキリスト者はなおさらそうであって、生においても死においても、イエス・キリストに自分を委ねようとおもうからである。結局、ヨタヘロで生きるにしてもキリスト者としてあり続けよう、これが今のところの私の結論である。