inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

上橋菜穂子「炎路を行く者」

 前回触れた、上橋菜穂子「精霊の守人」シリーズの番外編に「炎路を行く者」がある。守人シリーズの「蒼路の旅人」と「天と地の旅人」に登場する人物アラユタン・ヒュウゴの少年時代を取り上げた作品である。だが、これを発表すると、シリーズの主人公皇子チャグムを中心とする話の筋がずれてしまうので、シリーズ完結までお蔵入りにしていた作品だそうである。
 チャグムの祖国新ヨゴ国が属する北の大陸に、南の大国である「タルシュ帝国」の侵略の手が伸びようとしていた。タルシュ帝国とは、ローマやイスラム帝国を想起させる他国を侵略支配して世界帝国を目指す大国である。一代にして帝国の基礎を築いた皇帝は死を間近にして「北の大陸に、永遠の楽土が生まれる」というお告げを受けた。そこに入り得た者は、老いることなく百年以上生きることができるという。言わば桃源郷のようなものである。始皇帝が永遠の命を求めたように、人間の野心の行き着く先は似たようなものである。彼の二人の王子が、父の夢を叶え次代の帝位を受け継ぐべく、競って北の大陸侵攻を目指している。その手段として、チャグムの故国新ヨゴに傀儡政権を打ち立て、侵略の足場とするため、チャグムを攫ってタルシュ帝国に拉致する役目を果たしたのが、帝国密偵で上記作品の主人公であるアラユタン・ヒュウゴである。 彼は、帝国に侵攻され属国となったヨゴ国出身でありながら異民族支配の手先となったのである。
 しかし彼は、帝国の侵略に手を貸す一方、ひそかにチャグムに北の大陸の強国相互に同盟を結ばせる策を授ける。例え小国新ヨゴを陥落させても、容易に北大陸全体に侵攻させないためであり、同盟成立が新ヨゴ国陥落前であれば、援軍を送って新ヨゴ国から帝国軍を撃退させることも可能である。そうなれば帝国も北大陸侵略を思いとどまるであろう。
 彼の諜報網は他国だけでなく帝国内部にも張り巡らされており、帝国内部の矛盾が増大していることを感知していた。帝国は今や伸びきった革袋のようだ。他国侵攻を止め、内政を整えることに専心すべきあると、ヒュウゴは判断していた。その方向に動かすため、彼は密かに属国の官僚達の人心を掌握していたらしい。
 彼が仕える王子ラウルの宰相はタルシュ人であり、属国領民の心を読み切れていない。王子領内で小規模の反乱の兆しを見るや、彼は命がけで王子に直言し、その怒りをかう。だが、反乱の続発と北大陸同盟成立の報告が入り岐路に立たされた王子は、再び牢屋からヒュウゴを呼び戻すのである。
 以上は、守人シリーズでのヒュウゴの動きである。なぜ彼が、祖国の敵であったタルシュの密偵となったかを語るのが、今回取り上げるヒュウゴの少年時代の物語である。
  ヒュウゴは武人階級最高位の「帝の盾」つまり近衛兵の息子であった。タルシュ帝国は旧体制に忠誠心の厚い近衛兵は家族もろとも皆殺しにする。物語は「帝の盾」の家族が潜んでいた隠れ家をタルシュが襲ったところから始まる。十二・三歳だった少年ヒュウゴは母と妹を守ろうとして戦うがその間に母も妹も殺されてしまう。火を放たれ燃え上がる隠れ家から辛くも逃れたが、負傷して倒れたところを火事見物にきた平民の少女リュアンに救い出される。彼女は貧しい川漁師の娘で、父と二人で暮らす小屋に彼を連れて行く。父の漁師ヨアルは、「帝の盾」の家族の生き残りを匿う危険を知っても、傷ついた少年を追い出すなんて不人情は出来ない男であった。最下層の平民であったが、孤児となったヒュウゴの傷が癒えると、彼が自活できるように泊まり込みの酒場の下働きに職を世話してくれたのである。
 身分を失い最下層に転落したヒュウゴは、必死に環境の激変に耐える。だが、そうした環境に慣れて来ると、将来への展望がなにも見いだせない虚しさに苦しむようになる。そんな時、ふとしたきっかけで下町の少年達の喧嘩に巻き込まれた。武人たるべく育てられたヒュウゴは、その圧倒的な強さを思わず仲間に見せてしまった。それから喧嘩の強さを競う不良少年達の標的となり挑まれるようになった。彼自身、強敵と戦う暴力に陶酔するようになる。結果、瞬く間に下町の不良少年の首に君臨することになってしまう。人並み優れた頭脳と気力・胆力を持ちながら、それを活かす方向と希望が持てない。それが、彼をそんな道に追い込んだのである。
 ある日、そんな喧嘩沙汰にリュアンが巻き込まれそうになる。とっさに短剣を抜いて彼女を助け出そうとした瞬間、「そこまでにしろ!タルシュ警備隊が来る。」と事態を救ってくれた男がいた。この男を、数日後、不思議な縁で今度はヒュウゴが窮地から救う事件が起きる。
 ヒュウゴが給仕として働く料亭に、タルシュ兵がやってきた。調理人に何かを指示しているのを見かけたヒュウゴが見張っていると、調理人が腕に何か薬を入れているではないか。その腕を配れと指示された客は、なんと彼とリュアンを助けてくれた男であった。薬物が入っていることと、逃亡を任せて欲しい旨を男に伝え、配下の給仕仲間を指揮して男をタルシュ兵から逃すことに成功する。男とは、翌朝の再会を約束して別れた。
 なんと男はタルシュの密偵であり、タルシュ内部で二人の王子が争っておりその勢力争いが昨夜の事件であったと知らされる。「オウル・ザン=砂漠のネズミ」と称するその男は、ヒュウゴが喧嘩沙汰で示した度胸と思い切りの良さ、救出劇で見せた頭の回転の速さと行動力を見込んで、タルシュ密偵になることを勧誘する。彼自身がタルシュに滅ぼされた属国の出身であり、故国が属国となったのも王族内部の勢力争いからであった事を打ち明ける。国に対する忠義なんてあっけなく裏切られるものだ。自分自身に忠義であれとヒュウゴに言うのであった。
 タルシュに頭を下げるなど絶対に嫌だ。それに、自分自身に忠義を尽くすほどの自信もない。ヒュウゴが勧誘を断って店に戻ると、昨夜の騒動で自国の警察から調べが入っていた。警察の取り調べで、ヒュウゴは半殺しの目に遭う。タルシュ兵に頭を下げ、自国民をこんな目に遭わせる自国警察が堪らなかった。目を上げれば高台には宮殿や武人邸街が見えた。あそこにいる方々も保身や出世に汲々として、戦で酷い目にあった自国民を助けようとはしない。父がその為に死んだ忠義とは何だったのだ。
 宿舎に戻ると、リュアンが心配して待っていた。店から知らされたとのこと。手当をしながらリュアンは言う「ヒュウゴ、どうなったらあなたは幸せになれるの?」。「何でもいいんだ。自分の仕事が人の幸せにつながると思える仕事ならば…」。「店で一生懸命働いて、独立して大勢の人に仕事を与えると言う道ではだめなの?」
 ヒュウゴは、タルシュの支配という現体制を肯定し受け入れて、その中でのし上げる気に何としてもなれなかった。それでは、今の警察や高台に住む連中と同じじゃないか。
 リュアンはしばらく黙っていたが、やがて「降っても照っても、私らはここで生きるしかないんだから」といって帰って行った。
 そうだ、ここで生きるしかない。それでも少しでも、ヨアルやリュアンのような民が安心して暮らせるような途はないのか?その為になら、生命を賭けても働ける。今、ヒュウゴにはそれが見えなかった。だが、「場所を変えねば、見えない風景もある」と「砂漠のネズミ」に言われた事が思い出された。立場を変えてみよう、様々の立場から帝国内部や世界の風景を眺めて、もっとも良い方向を探ってもいいではないかという思いが湧いた。
 怒りを腹に抱えた不良少年は、こうして密偵となり、帝国内外の国民がもっとも幸せになる方向を念じつつ諜報活動に従事するようになる。
 サトクリフの名作「灯火を掲げて」を思わせるような小説であるけれど、大きな違いは「永遠の世界」を思わせる異界ナユグの存在であろう。少女リュアンは幼少時の臨死体験によってナユグに呑まれた存在である。それ以来声を失い、会話はナユグの生物である「首巻き魚=タラムー」を介してしかできない。タラムーが首に巻き付く相手にだけ語ることができるのである。実際には、亡くなった母と、ヒュウゴだけである。
 ナユグは死者の魂が帰ってゆく世界として描かれており、天国のような平和な世界である。リュアンは常にその世界を眺め、そこに憧れている。チャグムも遂にそこに安らぐことを願う。
 だが、ヒュウゴは現世に留まる人間である。ナユグの存在を感知しつつ、死を思うチャグムに「逃げるな!」と叫び、現世にあって苦難の道を切り開くことを勧める。そして守人シリーズの最後に、牢屋から引き出されたヒュウゴはラウル王子に言う。「永遠の楽土を、北の大陸に求めないで下さい。この帝国を永遠の楽土とするために働いて下さい。あなたなら、それができる!」。
 作者は、キリスト教主義学校の出身であると言う。ヒュウゴがナユグに逃げようとするチャグム等を批判するのは、安易に来世の天国を説くキリスト教への反発であろうか。しかしながら、現世を肯定しその中での成功や出世を願うのではなく、現世を少しでも変え、苦しむ民を平和に導こうとする願いは、チャグムやリュアンが眺め憧れる世界への眼差しがなければあり得ないのである。
 現実の世界は、この小説よりもっと複雑で難しい。だが、終りの日に到来するという神の国も、その種はこの地上に蒔かれたのであり、目に見えなくとも確実に地上に芽吹き成長していくと説かれていることを思った。