inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

さらぬ別れ

 伊勢物語に、昔男の母宮が、宮仕えに忙しくなかなか遇いにこられない男(業平)に「老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな」と和歌を送る段がある。男は泣き泣き「世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もと祈る人の子のため」と返した。

 「さらぬ」とは「避けられない」という意味だから、「さらぬ別れ」は死別である。母宮の和歌は「年老いて避けられない死別があるとおもうと いよいよあなたにお目にかかりたいです」という意味である。いかにも皇女らしくおっとりとした歌いぶりだが、長岡京にいて京都で宮仕えする男と久しく会えない淋しさが伝わってくる。

 こんな和歌を思い出したのは、最近コロナのせいでなかなか人に会えないからであろう。また、知り合いがコロナに感染したような症状があり、幸い陰性であったが、ヒヤリとしたせいでもある。陽性であったなら、身近でいつでも会えると思っていたその人と、お見舞いの面会も叶わず、万一の場合は死に目にも会えない羽目になってしまう。私自身かなり年配で「老いぬれば」の境地であるはずなのだが、まったく覚悟がなかったというのが本音である。

 また、いつでもその気になったら会えると思っていた友と、いつのまにかそれぞれの住まいや仕事の関係で何年も疎遠になって了うこともある。それに「いい方だな」と尊敬や親しみを感じていても、立場の違いでお付き合いが叶わない場合や、何かの事情で喧嘩別れしたような方でも時間がたってしまうとどうしてそんな別れ方をしたかと悔やむ場合もある。人との出会いは喜びであり、同時に別れの悲しみのもとでもある。

 コロナ禍で一人引きこもっていると、「一期一会」など言い古された言葉でかたづけられない人懐かしい思いが湧いてくる。それが、「老いぬれば」年配になったと言うことなのだろう。

 幸い私はクリスチャンで、地上で再会できなくとも天国での再会を期待することができる。葬式の賛美歌に「愛でにし者とやがて遇いなん」というフレーズがあり、再会の希望を歌ったものには違いないが、つい涙がこぼれてしまって余り好きではない。それよりも、「愛はいつまでも絶えることがない」という愛の賛歌の方が、愛は生死を超えて存続する事を思い、天国で愛が完成する希望を感じ慰められるのである。地上での出会いは、主の御許で完成するのであろう。アウグスティヌスの母モニカが逝去に際して(自分の墓でではなく)「主の祭壇の前でわたしを思い出しておくれ」と語ったこと、いかにもクリスチャンらしい幸いな言葉であると思う。

 しかし願わくば、早くコロナ禍がさり、死別して天国での再会を期待する前に、友と楽しく顔を合わせて集う機会の到来を祈りたい。

 ちなみに業平の返歌は心優しいが余り感心しない。できれば「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(崇徳院)くらいの元気のある和歌を返して差し上げれば母宮も心強かったのではないか。