inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

映画「ハンナ・アーレント」

 ナチスユダヤ人殺戮は、21世紀に入っても人間にとって恐るべき悪の可能性の実例である。最も恐ろしく思えるのは、それを実行したドイツ人達が当時の時点で悪と思わなかったかもしくは罪の意識が殆どなかったことである。

 アイヒマン裁判で被告は、自分は上からの命令を忠実に実行したまでであり、自分には罪がないと主張した。ユダヤ人の哲学者で、フランスの収容所から脱走してアメリカに亡命した経験のあるハンナ・アーレントが、この裁判の傍聴記録を雑誌「ニューヨーカー」に連載した。それが「エルサレムアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」という著作になっている。その中で、アイヒマンが(リチャード三世のような)悪の権化ではなくむしろ凡庸な小役人に見えること、また当のユダヤ人の中にも仕方なくではあったがナチスの大量殺戮に協力せざるを得なかった者がいたこと等を報告している。これが、当時の大衆というかユダヤ人社会に大きな反感を呼び、大学での教授職を失いそうになるまでになった。この映画は、その事件前後の彼女を取り上げている。

 彼女はハイデッカー(有名な哲学者で、ナチス党員であった)の愛弟子であり、若い頃には愛人関係があったと言われている。だから彼がナチスに傾いたことは、彼女にとって他人事ではない大きな問題として捉えられたであろう。映画でも、ハイデッカーの講義を聴いて、思索と情熱が合体しうることを知り感動する場面や、戦後再会しての交流などが回想シーンとして出てくる。だから、ナチス党員やその協力者を一方的に悪の権化や怪物として断罪するよりも、何故彼らがこれほどの前代未聞の悪を平然と為し得たかを解明することが、まず第一の関心事であったのだろう。

 傍聴記録連載に対する反感が高まり、大学は辞職を勧告する。しかし彼女はそれを拒絶し、反論の特別講義を行う。「彼(アイヒマン)は人間であることの資格である『思索する』ことを停止した。思索し、善悪の倫理を決断し、それを自分の行動に反映させることを怠ったことが罪である。しかしそれは法制上の罪ではなく、より深い根源的なものに対する罪であって、それを断罪する側の人間にも悪について一定の思索と決断が要求される」といった内容である。学生は大喝采で彼女の思索を受け入れた。だが、大学時代からの親友であり哲学者でもあるハンス・ヨナスもこの講義を聴いており、彼女を傲慢・冷徹として背を向けて去って行った。

 私は彼女の著書も読んでいないし、たまたまレンタルショップで借り出したDVDを見ただけなので、まともな感想を書くことはできない。確かに、彼女の講義は思索することについての信念が感じられてそれなりに感動的ではある。だが、ナチスに傾いたことは単に思索を怠ったことであろうか。真実(今、何が行われているのか)に目を背け見ようとしない不誠実さの方がより大きな原因だったのではないだろうか。ハイデッカーほどの哲学者が思索しなかった筈はない。自分の好む方向にのみ、思索した結果ではないのか。だから、彼女が自分の思索と信念を世評を気にせずに主張する勇気と誠実は尊敬するけれども、何か足りないついて行けないものを感じた。思索というものは、立場や感情によって動かされるものである。理性が必ずしも正しい判断を為し得ないということも、人間を考える上で大切なものではないかと思った。