inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

文字と言葉

 私が自宅にこもっていると知って、妹が食べ物や本を沢山、数回にわたって差し入れてくれた。いまだに家族やサークルなどの世話に忙殺されている中で心遣いしてくれてありがたい限りである。私はと言えば惣領の甚六、こうした細やかな気遣いができないたちで申し訳ない気がする。
 届けてくれた本の中には、今の私なら手に取ろうとしなかったであろう一般教養や文化の本が多く含まれており、久しぶりに外出したような新鮮な気持ちになれた。
 中でも最も夢中になって読んだのは網野善彦著「日本の歴史をよみなおす」とその続巻であった。有名な本のようで知っている方も多いと思う。私は、特に著者が彼の学生達と自分の常識のギャップに驚くと述べ、それが社会と自然の関わりの変化からくる「基本的な生活様式」の違いから来るとしている処に興味を覚えた。子供世代との感覚の違いに驚くのは、どんな時代の親たちにもあると受け取っていたので、このギャップ感を、「基本的な生活様式」が、かつて14世紀南北朝動乱期前後に起きたような大きな転換期を迎えているからだとは気がつかなかったのだ。
 そういえば、20代まで基本的な文房具であった原稿用紙が、ワープロを使い出してからすっかり消えてしまった。奉書も半紙も、勿論筆もない。手書きすることも、自分の手控えメモ程度で、人との文書のやりとりは全てパソコンで行っている。大変な変化だ!孫世代は、心を込めて文字を書くという文化を保っていけるだろうかと不安になる。
 だから、年代記風の学校で習う歴史とは違う、貨幣経済やタブーと言った項目別の歴史の中で、特に「文字について」に心惹かれ、読んで気がついた点を二つあげる。
 ①まず、文章は「書き言葉」であり、全国どこでも通用する公用言語であったと言うことである。話し言葉には方言があり、ちょっと昔まで地方の特に老人とは言葉が通じない事がよくあった。それだのに、文書ならどの地方の文書でも読めて理解できるのは、公用言語だったからなのだ。口語文の普及で全国に標準語が広まったのではなく、元々公用語であった書き言葉が全国どこでも通用する話し言葉(標準語)になったいう面に気がついた。急速な普及は、メディアの発達よりもむしろその素地が文書によってできていたからだったのだ。
 ②公文書を漢文で作成する伝統は江戸末期まで続いたが、手紙などの私的文書は漢字と平仮名交じり文が普通であり、片仮名は和讃などの口頭で読み上げるための文字であったと言う。つまり、平仮名は書き言葉、片仮名は表音文字だった。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が漢字片仮名交じりで記録されている意味も、彼が詩作のつもりで無く、おのずからの呟きを記録したからだということがよく分かった。
 以上の2点は全て、「書く」という手作業と「用紙」を前提として成り立っている。だが、現在進行している変化は、「文字を書く」作業も「紙文書」も消滅させ、「パソコンを打つ」と「送信」だけで情報伝達も記録も行えるようになっている。こんな大きな変化が、これからの私達の生活様式をどのように変えて行くのか予測もつかない。

 変化を止めることは難しいけれど、パソコンやスマホといった器具を通じて対面しないで交流することが、従来の対面したり手紙をやりとりして築き上げた人間関係とどの程度違うかを心得、上手に用いてお互いを理解し合いう事に役立つ方向に持っていけるよう努力せねばと思った。