inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

キリスト者の要件

 久々の投稿となってしまった。読書記録として始めたブログだが、感想の書きやすい小説などではなく、どちらかというと教科書風のお勉強の読書(聖書解説本など)プラス気分転換用のライトリーディング(漫画やライトノベルズなど)だけに成っていたからである。

 ところが、聖書の箇所を調べたくてネット検索していたら、ある教会の文書に次のような文章を見つけた。「キリスト者は教会に籍を持って居なければなりません。どこの教会にも所属しないのならば、それは自分で勝手にキリスト者だと思い込んでいるだけで本当のキリスト者ではないからです。キリスト者とは個人単位のものではなく、教会に所属することが要件なのです」。多分、聖餐陪席資格に関連した文章だったと思う。それを読んで、甚だ淋しくまた疑問に思った。

 個別教会籍は、天国籍ではない。詩篇の詩人は「たとえ父母が私をみすてようとも、あなた(神)は私をお見捨てになりません」と祈っている。イスラエルの同胞から見捨てられても、神は信仰者をお見捨てになることはない。散らされて共に礼拝することもできない状況において、信仰者は唯一人で神に結びつき祈りを捧げる。また家もなく放浪したヤコブは、荒野で天から上り下りする梯子の夢をみた。教会を介さずとも、唯一人であっても、キリストのもの(所有)であり得るのである。

 内村鑑三は、不敬事件でどの個別教会からも同信の仲間からも見捨てられ、唯一人孤立した。だが、彼はキリスト者であり続けた。また、人間的に孤立した時ほど、神を求めて祈るものである。そして、そこから救い出された時、感謝と讃美をもって神を崇め信仰は苦難に遭う以前よりも増すものである。だから、個別教会に籍を置くことを、キリスト者の要件とするのはいいすぎであろう。ホームレスやそれに近いような生活をしている者は、個別教会に籍をおいて礼拝出席することは困難である。献げるべき献金もなく、教会組織維持に役立つこともできない。一定の安定した生活があってこそ、個別教会に籍をおいて継続的に礼拝に参加できるのである。教会の仲間から孤立し離れてしまったら、その人はキリスト者ではないとは言えない。むしろ、全ての人から見捨てられても、神に縋り神に信頼する人こそキリスト者といえるのではないだろうか。

 キリスト者は一人一人、その名を呼んでキリストが召し出した者達である。一人一人が直接主に結びついている。決して、教会を介してキリストに結びついているのではない。それぞれが、キリストの身体の一部分とされ、頭なるキリストに結びつくのである。ある教派(例えばプロテスタント)の教会に所属する者は、他の教派(たとえばカトリック)に所属する者をキリスト者ではないと断じることはできない。主は一つ、御霊も一つである。ユダヤ教キリスト教の「囲い」に属さない者達も、キリストは御自分の者として召し、よき羊飼いとして導いておられる事を信じるべきであろう。

 毎週の礼拝毎に、「ここに集い礼拝できたこと」を感謝して祈る。だが、教会に集い得ないで孤立する者、この世の荒野に彷徨う者をも主は追い求め、御自分の者となし給う事を忘れてはならない。コロナ禍や物質的な豊かさが人々を教会から遠ざけ、個別教会は戦後直ぐのような盛況にはない。このような時代だからこそ、一人一人が主に結びつく事を大切にしたい。