inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「カラマーゾフの兄弟」-2

 この作品を今回に読み返して、以前は嫌悪しか感じなかったスメルジャコフに、はじめて同情した。彼は、白痴の乞食女が産み落とし、下男のグレゴリーに育てられた孤児である。おそらく彼の母親をはらませたであろうフュードル・カラマーゾフから、父称フュードルを受け継ぎながら、その姓を「臭い男」を意味するスメルジャコフと命名され、カラマーゾフ家の庶子としても認められていない奴隷的下僕である。頭は悪くないが、ひねくれきって周囲の者全てを冷笑的にみており、小学生にピンを刺したパンを犬に食べさせることを唆すような奴である。モスクワに料理修業に出されており、戻ってきた時には性欲否定的で金銭に執着する宗派の者のようになっていた。自分の呪わしい出自から考え、彼が性欲を否定的に考えるのは当然であろう。性欲旺盛なカラマーゾフ一家の中で、唯一人性的欲望を嫌悪する人物なのである。だが、金銭についてはそうではない。
 自分の出自と、文明が遅れたロシアを憎んでいる。ここから逃れて、文明的と思えるモスクワなりフランスなりに逃れることを望んでいる。しかし、カラマーゾフ家に所属するほかに身の振り方はないのである。
 そんなカラマーゾフ家に、モスクワで新進の進歩的評論家として名を上げた次男のイワンが戻ってきた。スメルジャコフは彼に夢中になる。イワンの人物というより、狭量で迷信的な育ての親グレゴリーや主人のフュードル・カラマーゾフとは桁違いの、新しい思想「神がいないなら、何でもゆるされる」という(罪と罰ラスコーリニコフのような)考えに惹かれたのである。勿論、自分のような存在を作り出すなら神なんていない。存在するとしても、憎むべき者である。これが、スメルジャコフの性分にぴったり合っていた。
 イワンの突然の帰宅は、勿論父の遺産目当てであろうことも、金銭に執着する彼には手に取るように分かっていた。後妻の子であるイワン・アリョーシャ兄弟には、長男ドミトリーとは違って母からの遺産がない。父フュードルはほぼ12万ルーブルもの莫大な資産があり、再婚しないで逝去すれば兄弟3人に等分に分けたとしても4万ルーブルもの遺産が転がり込む筈である。ところがフュードルは、絶世の美女グルーシェンカに夢中になっており、長男ドミトリーと彼女を争っているという状況がある。
 情熱的なドミトリーが女を巡る争いで父親を殺せば、罪人は財産権が無くなるから、イワン兄弟が受け継ぐ遺産は6万ルーブルにもなる。また、フュードルがグルーシェンカを惹きつけようと、三千ルーブルの現金を手元に置いていることを公表している。しかし、ドミトリーが嫉妬に狂って父殺しが実行されれば、グルーシェンカの為に用意した三千ルーブルの現金の行方など、誰も追求しないであろう。現金が現実に存在しその隠し場所を知っているのはスメルジャコフだけだからである。
 イワンは直接には唆していない。だが、スメルジャコフは「神がいない。だから、何でもゆるされる」という思想を、具体的にフュードルがグルーシェンカと再婚しないまま殺害されることの期待として受け取った。ドミトリーが父殺しを実行すれば、イワン兄弟にはそれぞれ6万の遺産が入る。スメルジャコフもグルーシェンカのために用意した三千ルーブルを横取りできる筈である。そして、三千ルーブルはスメルジャコフにとって憎悪するこの町およびロシアからの脱出を意味した。
 グルーシェンカを巡る父子の争いは激しくなり、ドミトリーは平気で「(父親を)殺してやる!」など公衆の面前で言い放つ迄になった。ドミトリーの婚約者を愛してしまったイワンが、こうした愛憎劇から逃れて明日はモスクワに去ろうと決心して帰宅すると、スメルジャコフが待ち構えていた。下男夫妻が明日は腰痛の治療のため深酒して寝込む予定であること、またスメルジャコフ自身も癲癇の発作が起きそうだということ、を告げる。(ドミトリーが来ても、誰も止められない状況になる)。だから、イワンは是非明日、父親の領地にお出かけになるとよござんすよ、と言うのである。(事件が起きたとき現場におらず、また知らせを受けたら直ちに戻れるところにいなさいという意味である)。この秘密を共有するような狎々しい言い方に、イワンは不快を感じる。だが、実際はその反対に、なにか了解したような態度を示してしまう。スメルジャコフは、「賢い人とは、ちょっと話しただけで面白い」(あなたとは、直接言わなくても話が通じますね)という。
 その晩、イワンは明日出発することも忘れ、階下にいる父の様子(グルーシェンカの来訪を待ち焦がれて歩き回っている)を深夜まで窺っていた。そして夜が明けると直ぐ、出発の用意をして快活にスメルジャコフに「チェルマシニアーにいくかも知れない」と告げるのである。実際は、予定変更してモスクワに向かうが、道中の心はイライラした闇を感じつづける。イワンの表層の意識は、なにも知らない。だが、薄皮一枚下の無意識層でフュードルが予定通り殺害されることを期待していたのである。
 スメルジャコフは、予定通り発作を起こした。下男夫妻も寝込んでいる。ドミトリーは嫉妬に狂って父宅に忍び込んだ。だが、グルーシェンカが来ていないことを知ると、(神の助けにより)父を殺さずに逃げ出した。ただ起き出してきたグレゴリーを殴ってしまう。
 仮病のスメルジャコフは騒ぎを聞きつけて起き出し、グレゴリーに意識がないことを確かめ、フュードルを殴り殺して三千ルーブルを奪う。
 ドミトリーの様子に不審を抱いた者からの通用により、当局が駆けつけるとフュードルは死んでおり、下男は意識不明の重傷、スメルジャコフは激しい発作で病床にあった。直ちに、当局はドミトリー拘束に動き出す。
 事件後しばらくして、イワンはスメルジャコフを訪問する。最初は仮病だったかも知れない。だが、医者の見立てでは、いまや彼は回復不能であるという。その状態で、彼はイワンに告げる。「あなたが(父殺しの)主犯で、私はその道具に過ぎなかった」。スメルジャコフの告白を信じないイワンに、彼は奪った三千ルーブルの現金を出して見せる。わずかこれだけの金が、スメルジャコフがこの地からの脱出のために希望したものだったのである。莫大な遺産を受け取るのはあなた(イワン)であり、実行犯の私はわずかな手間賃を受けただけですよ、と彼は言う。もう自分でも分かっていた。イワンは彼を裏切り、罪を自分にだけ押しつけようとしている。その上、自分の生命は残り少なく、三千ルーブルももはや自分には使い途が無い。ただ、自分を生み出した世界への憎悪を証する為だけのものだということを。
 イワンが立ち去ると、なんの遺書も残さず彼は自殺する。状況証拠から、ドミトリーは有罪となるであろう。無罪を示す証拠も証言も残さないために、彼は死んだのである。
  ホンの僅かな金銭のために、人はこれほどまでのことをする。金額の多寡ではなく、金銭において人間のエゴと自己主張が剥き出しになるのである。もしスメルジャコフが幸せな環境に生まれ育ったなら、と考えても無駄であろう。自分と他者を愛する心が与えられていないならば、同じだからである。スメルジャコフは、惨めな人間がそれでも憎悪において傲慢に自己主張した姿であり、逆に、打ちのめされて何の誇りも持てなくなった姿が、ドミトリーから侮辱されたスネギリョフである。スネギリョフの立場もやがてスメルジャコフと似たようなものに変化していくであろう。結局、追い詰められた惨めな状況において、傲慢にも惨めにも陥らず、誇りと希望をもって生きて行く途はどこにあるのか、考えざるを得なかった。