inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

カラマーゾフの兄弟-4

 何度かこの作品の感想を書きかけたのだが、今は少々後悔している。やはり私の好む小説ではない。しかし、話の本筋ではないアリョーシャと少年達の場面だけは心に残り忘れられない。特に、最後に死んでしまうイリョーシャという少年のことである。
 彼の父スネギリョフはドメトリーに髭を捕まれて広場に引き釣り出され、殴られるという侮辱を受けた。ちょうどその時、学校帰りの少年達(9歳から12歳くらいの)がこれを目撃する。その中に息子イリョーシャがいた。彼は駆け寄って、父をかばい、ドメトリーの暴行を止めようとして彼の手に接吻までして哀願した。学校友達のみている前で、父親を恥じもせずこんな行動をとれるとは、なんと勇敢で男らしい子供だろう。
 そんな子供の前で、ドミトリーは獣以下に思える。だが、彼は自分に対する手形取り立てを外ならぬグルーシェンカに委ねようとする父フュードルの所業に激怒していたのである。スネギリョフは手間賃稼ぎにその手続きをした結果、フュードルに対する怒りのとばっちりを受けたのである。悔しかったら、いつでも決闘を受けてやると言い捨ててドミトリーは去る。スネギリョフ父子は悄然と帰宅するしかなかった。
 「パパ、あいつに決闘を申し込んで!」と言われて、自分が死んだり怪我をしたら貧しい一家はどうやって生活するんだと父は子供に言い聞かせる。「じゃあ、僕は大人になったらうんと強くて、お金持ちになって、あいつを見返してやるよ。そしてパパ達を幸せにするんだ!」。だがそれは夢にしかすぎない。
 イリョーシャの2級先輩にコーリァという少年がいた。彼は頭もよく、しかもレールの間に伏せって列車をやり過ごすという度胸を示し、下級生に崇拝される少年達の英雄であた。彼は、イリョーシャが貧乏で同級生にいじめられても卑屈にならず健気に戦っている姿を見て、彼を気に入り弟分とする。だが、自分にすっかり依存するのではなく男らしく独立した精神を叩き込まねばと(生意気にも)考えるような少年である。ところが、その弟分がなにか精神的に悩んでいる様子なので聞き出すと、唆されてピンを入れたパンを犬に食べさせてしまったと告白された。ジューシカというその犬を、ひどい目に遭わせ、おそらく殺してしまったことを悩んでいたのである。コーリァは彼に反省させるため、絶交を言い渡す。これも、彼に男らしく立ち直らせる教育のつもりだった。
 ところが、スネギリョフ侮辱事件が起こると、いったんおさまっていたいじめがまた再開してしまった。イリョーシャは勇敢に同級生と戦ったが、止めに入ろうとしたコーリァまでペンナイフで突き指して逃走する。同級生達は彼を追いかけ、ドブ川を挟んで彼と石の投げ合いで対決しようとしていた。そこにアリーシャが通りかかる。
 一対六の喧嘩を止めとうとしたアリョーシャは、逃げ出したイリョーシャを追いかけて喧嘩の訳を尋ねようとした。ところが、イリョーシャはアリョーシャの指を血が出るほど噛みついて逃走してしまう。アリョーシャは、憎いカラマーゾフ一家の人間だからである。その晩に発熱し、二度と登校することもなく世を去ってしまう。
 子供と言うものは、不思議に不幸の原因を自分だと思い込むものである。国連子供大使を務めていた黒柳徹子さんが、難民の子供達が自分がこんな目にあうのは自分が悪いことをしたからだと思い込んでいると、泣きながら報告していたことを思い出す。なぜこんな不幸が自分に起きたか知的に理解できない子供は、その原因が自分自身にあるに違いないとしか考えられないのである。イリョーシャも、慕っていたコーリァに絶交されたのも、自分が家族を幸せにできずに死んでいくのも、全部、自分がジューシカ(犬)をひどい目に遭わせたからだと思う。
 しかし子供達の純真な心には、イリョーシャが愛情深い健気な子だということが本当はよく分かっていたのであり、事情を知ったアリョーシャの仲介で見舞いに行くようになった同級生達は、それからは自発的に毎日のように彼を見舞うようになった。だが、イリョーシャがあんなにも慕っていたコーリァだけは、いくら誘っても見舞いに来ない。実は、コーリァは企みがあった。ジューシカにそっくりな犬を探し出し、芸を仕込んで、イリョーシャに「おい、元気出せよ。ジューシカだってこんなに元気に回復したんだから!」と彼を驚かせ励ますつもりだったのである。ついに、その時が来た。犬を連れて、イリョーシャに会いにいく。その衝撃はすさまじかった。
 「ジューシカ!ジューシカだ!」。ひどい目に遭わせて殺したと思っていた犬が、今、目の前で元気に芸をして見せてくれる!イリョーシャは、友人達と和解できただけでなく、苦しんで死んだはずの犬が元気に喜んで帰ってきたこと体験したのである。信仰のことは何も知らないながら、彼は赦しと復活を味わったのであった。
 二週間後に彼は死んで葬式が行われた。葬儀後の心ばかりのもてなしの前に、アリョーシャと少年達はイリョーシャの思い出の石(パパとそこまでよく散歩した大きな石)まで散歩する。アリョーシャはそこで少年達に、将来どんなシニカルな大人になったとしても、イリョーシャを愛したことを忘れないでいようと語る。「あの子の顔も、服も、貧しい長靴も、柩も、不幸な罪深い父親も、そしてあの子が父親のためにクラス全体を敵に回して、たった一人でたちあがったことも、覚えていようじゃありませんか!」。少年達は感動して「そうです!そうです!」と叫ぶ。
 万感胸に迫ったコーリァがアリョーシャに言う「宗教ではよく復活ということが語られるけど、本当に復活ってあるんでしょうか?」。ジューシカは本当は復活していない。それは彼が仕組んだお芝居だった。だが、もしそれが本当であったなら…。イリョーシャが、あの「ジューシカ」のように元気に喜びに溢れて帰ってくるという希望をもっていいんだろうか、と彼は信頼する大人アリョーシャに確認したのである。
 「ありますとも!」とアリョーシャは応える。「必ず再会して、それまでのことをお互いに楽しく語り合うんです」。「カラマーゾフ、万歳!」と少年達は叫んだ。
 この少年達との関わりあいは、書かれなかった小説第二部の布石だそうであるが、この最後の場面だけでも、この作品を決して忘れられないものにしている。
 そして、イワンが、スメルジャコフに「主犯はあなたで、実行した私はその道具だったに過ぎない」と指摘されて苦しむ場面で、アリョーシャが「人生を賭けて」それを否定するところも心に残る。確かにイワンはフュードル殺しを期待し、それを阻止しようとはしなかった。だが、それを意志的に決断したのではない。吹雪ですれ違った百姓を突き飛ばし凍死寸前まで放置するような、嫌な奴ではある。けれど、後悔してなんとか助けようともするのである。冷酷と良心の狭間で、揺らいでいるような状態にある。アリョーシャのイワンへの愛が「あなたは犯人ではない」と叫ばせるのであり、彼を良心と生命の方向へと引き戻そうとするのである。
 愛は意志に存在する。頭でどのようなことを考えようとも、人間を軽蔑し憎む方向へではなく、愛し支える方向へと決断し続けねばならない。イリョーシャは父親を愛したから、胸が張り裂けるような苦しみを味わって死んだ。だが、世間と一緒になって父親を軽蔑するよりもどんなに気高いことであろう。人間を愛することは苦しみを伴うけれど、愛と生命の勝利を信じることが人間を支えている。この作品は、読んで楽しいものではない。だが私も、このことだけは忘れずにいなければならないと思った。