inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

映画「安魂」

 岩波ホールが間もなく閉館になると聞き、若い頃から親しんだ映画館を最後にもう一度訪れてみた。中国と日本の合作の「安魂」がかかっており、息子を亡くした父親がそのショックをどのように乗り越えるかがテーマになっていた。

 原作の小説と映画は、中身が大分ちがうようだ。私は映画だけしかみていないので、その感想になる。

 主人公は著名な作家であり、書店でサイン会が催されている。どこかの記者がインタビューを申し込むが、何件か先に申し込まれているから順番に対応させてくれ等と応答している。場面は変わり、農村の入り口に「わが村の誇り、文学賞受賞作家周先生きたる!」と横断幕がかかっている。若い日の彼が小学生くらいの息子を連れて歩いている。一人っ子政策の時代、貧しく文化的に遅れた村を抜けだし、都会で世界中の色々な文化に触れられるような場所で息子を育てたいと思っている。自転車の前に幼い息子を乗せて、凧揚げさせたり、如何に息子を愛し、将来を考えたかが回想される。そして現在、こうして作家として名をなすまでに至ったのである。

 青年になった息子が職場のパソコンの前で働いていると、同僚が根詰めて働きすぎだよとたしなめる。今晩、両親に彼女を紹介するんだろう、3年も付き合った人だうまくやれよと励ましてくれる。彼女は農村の人間であり、バスで上京してきた彼女を迎えに行って、家に連れ帰る。母親は歓迎するが、作家の父親は、学歴もない貧しい農村の女が気に入らず、息子の連れ合いにふさわしくないと結婚に反対する。現在の日本なら、親がどう言おうと自分の勝手で好きな人と結婚するであろうに、中国ではいまだに親の意向がそれほど問題なのだろうか、と思った。

 がっかりして彼女を見送った帰り道、息子は突然倒れた。日本人の女子留学生が救急車を呼んだ。駆けつけた両親に、医師は脳腫瘍を告げる。一応手術を行うが、目を覚ました息子は父に、幽体離脱して天井から父さんと自分を見たと告げる。まもなく世を去る事を予告したのだ。そして、「父さん、ありのままの僕が好き?本当は、父さんが愛しているのは父さんの心の中の僕のイメージじゃない?」と言うのである。息子に夢を押しつけ、プレッシャーをかけすぎたのではないかと作家は反省する。息子が存在していることが、何よりも喜びであり楽しみであり、彼のよりよき将来を夢みてしたことが、かえって彼を苦しめただ。まもなく、息子は病院で息を引き取ってしまう。

 父親は立ち直ることができない。息子の霊は今どこにいるのか、東西の本を読みあさたりする。そんな時、ふと街角で息子にそっくりな若者を見かける。思わず追いかけてしまう。若者が入っていったのは「心霊研究所」という怪しげな家であった。中を覗くと、降霊術をやっている。若者は父親と称する男の主宰する降霊術の会の霊媒を務めていた。詐欺だと分かっている。だけど、息子の面影を宿した若者に会いにゆかずに居れない。自宅で妻の反対を押し切って降霊術の会を行った。息子の霊はこの世に借金があるから成仏できない、50万円を○○という男に返してくれと言う。「詐欺だ!警察に通報する前に帰れ」と妻は叫ぶ。彼らは本拠地に戻り、逃げ出す支度をする。ところが父親の作家は、50万円の現金を持参して、もう一度若者を訪ねてくるのである。現金を受け取って首謀者達は逃げ出した。だが、若者は自首すると告げる。「あんたを騙したんだよ。全部嘘だ。ネットであんたと息子の事は色々調べたのさ」。作家は、「分かっていたよ。それでも君に会わずにいられなかった。出所したら必ず逢いに来てくれ」と言う。そして最後に「抱きしめていいか?」といって、若者を抱きしめる。

 60前後の大の男が、恋人を抱きしめるように若者を抱きしめ、涙を浮かべて胸に何度も押しつけるシーン、ちょっとヤバいような気がした。

 だが、人を愛するとは相手の「存在」を愛することである。息子がどんな精神の持ち主であったかではなく、ただ彼が現実の身体をもって存在すること、それが喜びであり、生きがいであり、自分の命であったことを、父親は思い知った。若者は息子ではない。だけど、息子の面影をもって自分の前に現れてくれた。ただそれだけで「金持ちと馬鹿は嫌いだ」と言い放つ、貧しい詐欺師の若者を、愛さずにいられなかった。

 息子がどのような性質の持ち主であるか、どのような状態にあるか、自分に対してどのような態度をとるか、それらを全て超越して、息子の存在そのものを、父親は愛していたのである。たとえ息子でなくとも、息子の面影をもっているだけで若者を愛した。若者という身体をもった「存在」を通して、父親の作家は息子への愛を浄化した。自分は彼を「愛した」。彼の性質や、自分の老後の支えになることや、その他彼に期待し付随する様々のことを超越して、彼の存在そのものを愛していたのである。彼の地上での存在が消え去ろうとも、彼を愛し堅く自分に結びつけた「愛」は決して消えない。

 「天官賜福」というアニメで、「鬼=幽霊」が、自分の骨灰を愛する者に託すという最高の愛の風習が語られていた。託された相手が骨灰を大切にしてくれる限り、鬼はたとえ消え去っても、必ず愛する者の側に甦ることができるという。これはロマンチックな作り話に過ぎない。だが実人生において、「愛」は骨灰以上のものである。「愛」を根拠にして、人間はまた身体をもって復活することを私は信じる。愛する以上、相手を霊魂のみ存在として愛するのではない。必ず、もはや痛みも悲しみも死もない、永遠に不滅の「身体をもった存在」として愛するのである。

 聖書は「愛は永遠に絶えることがない」といっている。イエス・キリストを根拠にして愛の不滅と身体の復活を信じられる自分を幸いに感じた。