inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

放蕩息子の帰還

 放蕩息子の譬は、聖書の中でも最もよく知られた話であろう。様々の絵画に描かれたているが、私が思い出すのはレンブラントの版画である。建物のドーム型入り口の前で、丸いユダヤ帽子をかぶった老人が、跪いている半裸の若者を抱きしめている情景が描かれている。放蕩息子は跪いた後ろ姿だけで表情は分からない。人物も背景も特別なものはない。父親らしい老人の浮かべている嬉しげな微笑みだけが、この絵の中心になっている。
 譬え話の趣旨は、罪人の立ち返りを喜び給う神の愛であろう。だが、私はこの譬え話の放蕩息子を自分自身になぞらえて感じたことは余りなかった。生前贈与された遺産を現金に換え、遊興に使い果たすような大胆さを持っていないからである。私なら、家業を継がず自分で一本立ちしようとするなら、小心翼々、少しずつ投資するであろう。だから、将来も考えず遊興に金を使い果たすようなこの息子の気持ちが分からないとおもっていた。
 だが年を重ね、頑張れば何でもできるかのように思っていた若い頃から現在に至るまでを思い返すと、放蕩息子が父の家を思い出す場面が身にしみてるようになった。仕事や家庭や教会生活を、自分なりに一生懸命取り組んできたつもりである。だが、その成果は?志しの半ばも達したかどうか甚だ心もとない。また、ある程度達成したものがあったとしても、それが何だと言うのか。それが今の私を満足させてはくれない。
 私だけではないだろう。もし、十分偉大な仕事を達成できた人がいて、自分の生涯を振り返って満ち足りた気分になれる場合はそんなに多くはないと思う。例えば、モーツァルトのレクイエム、ラクリモーサの部分のむせび泣くような気持ちは、人間が自分の生を振り返って感じざるを得ないものではないだろうか。自分のマネッジした人生は空しかった。父(神)の家に帰ろう、父がマネッジしておられる仕事に従事してすごそう。それが、譬え話の放蕩息子の気持ちであるならば、私はこの年になってはじめて、彼にしみじみ共感するのである。
 放蕩息子の兄は、父が弟を過剰なまでに歓迎するのに腹を立てる。自分は、奴とは違い毎日仕事着を着て、父に指図されるまま日々労働してきた。その自分の為に小羊1頭屠ってくれたこともないではないか!別にそうして欲しい訳ではないが、遊興に金を使いはたした弟が戻って来たからと言って、こんな歓迎ぶりはないでしょう、というのが兄の気持ちであった。だが、彼は忘れているのだ。父の指図のまま、自分であれこれと考えずに働く彼には、父の家(つまり神の国)を受け継ぐ将来が約束されていることを。それは、弟が自分で自分をやりくりする心労と辛苦の生活の果ての不安とは比べものにならない。父は優しく、兄にそれを諭すのである。
 老いを感じるこの頃、やりたいことをやる体力も気力も少しずつ失われて行くことを思う。だが、自分で自分の生活をマネッジしたい気持ちは、もはや消えつつある。幼い日から私を導き支えて下さったイエス様が、これからも私の歩むべき道を示して下さるだろう。導きのままに、自分を忘れ主イエスを讃美しつつ残る生涯を過ごせたらいいな、と考えている。放蕩息子が、父の家への帰還を思い起こす状態といえばいいのだろうか。立ち上がって、その方向に歩き出したいものである。