inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ヨハネによる福音書を読了して

 もう20年以上、家族で聖書を読み礼拝をする事を続けてきた。最初は毎週、説教担当の夫の体力が衰えてからは隔週行ってきた。夫が亡くなって一事中断したが娘と私二人だけで時に友人を交えつつ再開し、隔週で継続して今に至っている。子育て中の娘は無理なので、私が一応説教担当してきた。既に、ロマ書、マタイ伝、そしてヨハネ伝と読み進め、遂にヨハネ伝を読み終わった。今年心筋症で入院し、20章まで読み進んだヨハネ伝を終わらせないで死んじゃっては心残りと思ったが、それも叶った訳だ。感謝に堪えない。
 勿論、神学教育も受けていない平信徒の私が「説教」するなど困難である。だが、夫の健康も配慮し、ルッターが「キリスト者は互いに励まし合うべきである」と言っていることも思い出したのであえて続けてきた。これが、私自身にとって非常な恵みであった。
 クリスチャンの家庭に育ち、ミッションスクールに学び、聖書は繰り返し読んできた。通読のほか、聖書日課表というものが各種存在し、それに従って読んだり、毎日何章と決めて読んだり、要するに論語素読のように繰り返し素読してきたのである。だが、講解書を参考に文書毎に理解しつつ読んだかと言えば、そうではなかった。ところが、説教を担当するようになり参考に講解書を学ぶことによって、自分の中で既にできあがっていた「信仰」が何度かリフレッシュし、確かになることが分かった。勉強しつつ読むことがいかに大切かを痛感する。
 最初は夫の(日本語の)蔵書から主にEKK講解シリーズを参考にした。ところが、「ヨハネによる福音書」の講解書を探しても、専門的過ぎて難しかったり逆に平易すぎて物足りなかったりでなかなか手頃な物が見つからなかった。そこで夫の友人に相談し、井上良雄先生の著書やバルトのもの、それにNTD註解をわけて戴いた。
 ところがNTD註解以外は、バルトも井上先生も途中までであり、またNTD註解では納得できない部分もあった。そこで、ネットで散々検索した揚げ句「天旅」というホームページに載っていた記事に心惹かれ、市川喜一先生という方の「ヨハネ福音書講解」上下を購入して、主にそれを参考にして家庭礼拝でヨハネ伝を読んできたのである。
 後から知ったののだが、市川先生は所謂無教会派の独立伝道者で、私が育った教団系の信仰とはまた別の系統の信仰者である。だが、内村鑑三を無教会派だからと認めないクリスチャンはいないであろう。教派に拘わらず、「主は一つ、信仰は一つ」である。註解はギリシャ語原文から解釈し、現代神学の成果を十分に踏まえて独自の信仰的解釈をしておられて非常に参考になった。仏教その他異教的文化に囲まれ、欧米とは違った状況にある日本のクリスチャンは、キリスト教国の神学者の書いたものには違和感を覚える場合がある。だが、市川先生は私達と同じ日本人であり、しかも伝道者として難解すぎない語り口であった。この註解、及びNTD註解で主に学びつつヨハネ伝を読み終えることができた。深く感謝している。
 だが、生意気なようだが、それでも私は自分の感性で読み取ったものだけを語ってきたつもりである。語る相手も、私を霊的指導者としてではなく信仰の友として聴いてくれる。まことに、幸せな状況と経験である。
 ヨハネ伝を読み終えて新しく思った事は、「信仰」の多様性である。カトリックプロテスタントといった教派の違いだけでなく、ユダヤ教やそれ以外の異教の中にも真の信仰者が存在するという確信である。「全ての宗教の目指すところは同じ」など、くだらないことを言うのではない。各自が自分の信仰の確信に生きる以外ない切実な現実である。パウロは割礼を強いる「偽キリスト者」つまり律法問題について戦ったが、その相手もかつての彼自身のように自分の信仰に確信をもっていただろう。結局、聖霊の照明以外にない。
 では、自分の信仰を確にするためにはどうあるべきかといえば、自分が聴き取った「主の御声」に一心に従っていく以外ない。どんな宗教や哲学があろうとも、それが私と何の関係があるだろう。「汝は、我に従え」である。
 この世に生きる間だけ自分を支える為に選び取った信仰や観念ではなく、私を召す「主の御声」を聴いたからには、生死を超えてそれに従う。それが、私自身だけでなく他者の信仰や生き方に対する誠実さであろう。「主の御声」が何を語るかを解き明かすのが、聖書であるから、聖書を学びつつこれからも生きて行こうと改めて決心した。
 勿論、自分の限界は心得ている。自分なりに、精一杯してみるということである。
 どこまで続けられるか分からないが、ヨハネ伝を終えて次は新約聖書のどの文書にチャレンジしようかと考え中である。