inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

待望と希望

 新聞に猫をキャラクターにした「銀河鉄道の夜」の漫画が連載されていて楽しみに見ている。先週は、タイタニック号沈没の犠牲者が乗り込んできた場面であった。家庭教師の青年が、預かった子供達を抱きしめて死ぬ覚悟をつけた時に歌声が聞こえてくる。「ああ、320番!」。〝主よ、御許に近づかん。昇る道は十字架に…〟と死を目前にした人々が、色々の国の言葉で歌った事が語られていた。死は、現世を離れ天国に迎えられること、との慰めと希望が歌われたのであり、感動的であった。
 だが、天国とは現世を離れて行く「あの世」だろうか?4番の「うつし世をば離れて、天がける日きたらば」以下は、死後、主と共にいる状態に憧れ希望することを言っている。確かに、パウロも死んで主と共にあることと、生きて働くことと、どちらを願ってよいか分からないとしているから、死後、キリストと共にある状態は安息と喜びであることに間違いはない。だが、それは最終的な希望ではない。
 聖書で主に語られている希望は、天国が(この現世に)「到来する」こと、言い換えれば主が栄光と裁きの姿で「到来される」ことである。主と共にある死者達もそれを待ち望んでいる。黙示録では、殉教者の霊が立ち上がって「主よ、何時まで裁きを行わず、…私達の血の復讐をなさらないのですか」と叫ぶ場面がある。彼らは、慰められつつ、なお、しばらく静かに「待つ」ようにと告げられる。つまり、主と共にある死者達も「天国の到来」を切に待っているのである。つまり、各人が別世界である天国に「転生」することではなく、現世が変えられて「神が人と偕に住み、人は神の民となる。…もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」天国となること、が最終的な待望と希望の対象である。
 人間自身が現世を天国とする夢は、最近の社会主義の破綻などに見られるように簡単に破綻する。あくまでも、現実と妥協しつつ改善の努力を続けるしかない。確かにドストエフスキーがいうように虐待死する子供達がいる現実を、人間がどう解決できるというのだ。神のみが為し給うことである。
 キリスト者としては、死を信仰によって受け入れるだけではなく、聖霊によって現世において既に喜ぶだけでなく、更にイエスの十字架と復活によって成し遂げられた現実(復活の命)が、目に見える形でこの世に到来すること、すなわち主の再臨と天国の到来を待ち望むべきであろう。だが私達自身、このように明確な最終的な希望を抱いているだろうか。
 自分達に与えられた希望がいかに大きなものであるかを聖書から学び、喜びと感謝をもって「主イエスよ、来たりませ」と祈り、忍耐して待ち望むキリスト者でありたい。