「怒るべきものを怒れといにしへの金剛力士像ひとつ立つ」 窪田章一郎
ヘヴィメタチャーチに参加後、上記の歌がしきりに思い出される。無論、古寺の金剛力士像のイメージではなく、上の句の「怒るべきものを怒れと…」との歌い出しである。
「怒るべきものを怒る」ことは、生きるエネルギーである。ヘヴィメタに共感しえたのも、轟音や絶叫に怒りのエネルギーを感じたからであろう。病に、不慮の死に、戦争に、貧富の差に、弱肉強食の社会に、何よりも充分生きたとも思えないうちに世を去らねばならない事に、誰が憤りと怒りを感じずにおれようか。誰に訴えようもないこの鬱屈した「怒り」をロックミュージックが表現しているように思えた。
窪田章一郎の父、空穂は、終戦一年を経ても、中国戦線で生死不明の子に
「親といへば我ひとりなり茂二郎生きをるわれを悲しませ居よ」と詠み
彼がソ連抑留で還らぬ人となった事を知って
「いきどほり怒り悲しみ胸にみちみだれにみだれ息をせしめず」と詠んでいる。
息子を愛することは、そのまま彼の消息が知れない事を「悲しむ」生きる事であり、遺骨さえ戻らぬその死を知って息ができない程「いきどほり怒り悲しみ」に胸が詰まる。そうした事が全て、空穂の絶叫のように激しく心打つ歌になっている。
ヘヴィメタ礼拝の締めくくりは、「イエスの唱えた愛と平和!」みたいになっていたが、安易に過ぎないか?イエスは「愛や平和の教え」を唱道したのではない。黙示録の龍と獣に象徴された「神に逆らう勢力(罪と死)」に戦いを挑み、(十字架上で)勝利されたのである。歴史的に確定されている「ポンテオ・ピラトの下で苦しみ=死」、三日後に死に打ち勝って「復活」し、数名の弟子達に顕現された。だから福音は、何らかの「教え」の唱道ではない。イエスの十字架上の死は、昔洪水で人類を絶滅させたような人間の罪(反逆)への「神の怒り=罰」の執行であり、霊的勢力としての罪を消滅させた「神の救い」の実現成就という出来事(事件)である。
黙示録の幻は恐ろしい。殉教者の魂は「血の報復」を求め、地上には「神の正しい裁き」を求める絶叫が充ち、激しい災害が次々起きる。そして最後に、天の大群が「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しい」と唱えて、神の審判が締めくくられる。
幻として示されているが、「神の正しい裁き」は「イエスの出来事=十字架と復活」によって実現しているのであり、それに従って「怒るべきものを怒り」、「死に至るまで」イエス・キリストに「忠実な者」たれ、と黙示録は語っている。
安易に人間的な「ラブ&ピース」を唱えるだけでなく、社会的不正義など「怒るべきものを怒る」誠実さが肝心である。しかし、正しいと信じた事を追求しようとし、それさえ自らの愚かさと過ちや弱さに妨げられ、挫折しつつ、なお頭を上げて追い求めていく。それが誠実に生きようとする人間の歩む道であろう。そうした人間の孤独感が次の歌の「黒豹」に詠まれているように思う。
「森くらく絡まる網を逃れのがれ ひとつまぼろしの吾の黒豹」 近藤芳美