inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ゲーテ「ファウスト」読書の記憶

 小学校の三年生か四年生のころ、クラスで隠し芸大会があった。手品や日本舞踊など、当時はお稽古事が盛んだったからなかなか芸達者のクラスメートが多かった。そこに混じって私は紙芝居を演じた(何をやったかは忘れたが、図書館から借り出した童話だったと思う)。やんやの喝采で、「アンコール」「アンコール」のかけ声がかかり、アンコールまで用意がなく困って、とっさに「ゲーテの詩を暗唱します!」と言ってしまった。(父がゲーテを愛読しており、面白がって私に暗唱させていたのである)。「では、『旅人の夜の歌』。”すべての山々の上に憩いあり…(以下略)」と、はじめて、「しばし待て、我もいこわん」と、堂々と暗唱し終えた。だが拍手もなく、一同ポカンとした反応しか示してくれなかった。
 大人だって解釈が難しい詩を、訳も分からず子供が暗唱したのだから、先生もクラスメートも呆れた事だろう。思い出すと恥ずかしいやら可笑しいやらで、一人で苦笑してしまう。
 そんな次第だから、ゲーテファウストは物心ついた時から知っていた。十代で始めて翻訳を読んだ。以下は、その頃の私の感想である。
 ヨブ記をまねた天上の序曲は、三人の天使達が創造された世界を眺めて「このさまを見るだけで天使らはみな強みを覚える、(以下略)」と称えるシーンは美しく心に残った。それに続く第一部は、ファウスト博士の絶望には大して同情できず(いい気なものだなどと思った)、簡単に気を取り直すのもあきれるが、聖書の翻訳を原文に忠実に翻訳しようとしないのも気に入らなかった(「始めに言葉ありき」を勝手に「始めにありき」などとしている)。メフィストと出会い酒場で学生を驚かせたりするのは面白かったが、グレートヒェンとの恋愛で彼女を破滅させたのには怒りを感じた。しかし、これだけリアルにグレートヒェンの絶望とファウスト(ハインリッヒ)の実のなさを描けるというのは、作者ゲーテ自身の体験と罪の意識があるからだろう。一応、自分の裏切りを申し訳ないと思っているのだ。
 そして第二部。政治に関わって紙札を乱発するのは(インフレになるから)無責任な悪魔の所業だと思った。その後のワルプルギスだの、ホムンクルスどか古代のヘレナとの出会いや別れは、当時の上流知識人の関心事のようで殆ど分からず面白くなかった。
 最後に海を埋め立てようとして立ち退かない老夫婦を殺してしまうのは権力者の罪であり、憂いの霊に盲目にされてしまうのは当然の報いである。そして自分の墓穴を掘る音を、海を干拓しようとする作業の音に聞き違いして「時よとまれ、そはあまりに美しければ」との言葉を吐いて息絶える。「ざまあ見ろ」と言いたい処だ。メフィストが勝利したかと思いきや、天使達が「我らは、努力する者を救うことができる」などといって、ファウストの霊をさらっていくのはズルとしか言いようがない。
 それに、罪を悔いる女でかつてグレートヒェンと呼ばれた女が、神曲ベアトリーチェよろしく、ファウストの霊を天上へと向かわせるのは、どうにも納得できなかった。 「永遠の女性、われらを高みへ引きゆく」など、手前勝手な事を言うなと言いたい。他者を犠牲にして自分が向上しようとした男(ファウスト)が、踏みにじった相手の女に期待できる事ではないだろう。
 ファウストは信仰がないことを告白しているが、作者のゲーテは自分の考える人間的宗教(キリスト教とは似て非)で救済させている。イエス・キリストの十字架の贖いと復活もなし、悔改めたのはどう見ても被害者であるはずのグレートヒェンだけとは、いただけない。(ファウストは、悔改めなしで救済される!)
 詩人としては最高の人だろうけど、美のイデアに入れ込みすぎるのは人間としてはヤバいんじゃない?など、せいぜい頑張って読んだ当時の私の感想だ。
 しかし、人生も終りに近づいた今、ゲーテの詩によるシューベルトの歌曲を聴いて、今さらながら詩(言葉)のもつ、一種デモニッシュな魅力を思い出した。本棚から探し出してぱらぱらと読み返した。最初読んだ時は、殆ど気がつかなかった前座の詩人や座長、道化の会話など、気が利いた警句が面白い。座長が詩人に、とにかく色んな事件を詰め込んで下さいと要望し、「そうすりゃ、…めいめいが自分の心の中にあるものを見つけ出すのです」とか「若い連中は、すぐにも泣いたり笑ったりしてくれる。…ところが出来上がってしまった人間は、何を見せても受けつけない」など、きっと私は「出来上がってしまった人間」で、世の中のあれこれを見ても同情できなくなっているのかも、などと思ってしまった。
 ダンテの神曲も、政敵へのあまりの憎悪にうんざりさせられるが、詩としては素晴らしい。そして代々の絵描きに、素晴らしいイメージを提供してくれた。ゲーテの詩もやはり素晴らしい。神学的・信仰的には認められないけれど、凡人が見通せない先までも極め、ファンタジーの世界を言葉で表現してくれる。それにファウストにいちいち茶々をいれるメフィストが面白い。退屈しのぎにつまらないアニメを見るくらいなら、時々は読み返してもいいかなと、今は思っている。

亡き友との一方的会話

 最近、身近な人を見送って喪失感が大きい。葬式は、今流行の超簡素なもので故人の経歴紹介や告別の辞もなかったが、近親者や極親しい者ばかりなら必要もなく充分心のこもったものであった。それほど長命とは言えないけれど、80才近くまで生き、苦しみなく世を去ったのだから、当人の為に悲しんでいるというより、身近な人を失った自分の為に悲しんでいるのである。
 私としては、死は終りではなく、永遠の命の入り口であると信じている。だが、日常的に顔を合わせ、喋ったり笑ったり、一緒に行動してきた人と、もう地上で会えないことが自分の一部がすっぽ抜けたような喪失感になっている。私は目に見え五感で認識できる現世にいるが、私と親しく繋がっていたその人は「見えない」世界に移されてしまった。しかし、お互いの繋がりは絶たれてないと、ハッキリ感じる。と言う事は、現世にいる私も幾分かは「見えない」世界に属しているのである。
 そして間もなく、多分10年に満たない内に私も現世に別れを告げ「見えない」世界に移っていくのだろう。地上で出会い、心から親しみ愛してきた者達との別れは、どのようであろうか。黄泉とか「アブラハムの懐」とか呼ばれる復活前の死者の魂のいるところに移っても、彼らへの愛情と好意は持続し何もできないにしろ彼らの為に祈っていることだろう。そのような魂だけの状態で、かえって自由に地上の人々を見ることができるのではないだろうか。身体にあった時のように、場所や時間に制限拘束されることはない。また、地上にあった時の自分からも解放され、主の憐れみによって罪赦されているのだから、おそらく主の祈りにあるように、他者の罪をも心から許せるようになっているだろう。そうなったら、絶対に地上で出会った人を応援する。
 今私がそう思っているのだから、私と気が合ったその人も、「見えない」世界でそうしてくれている事だろう。では、私も気を取り直してしっかり生きねばならない。
 その「しっかり生きる」ことは、かつて若い日に考えたような充実した生き方とは少し違うように思う。何かを成し遂げるというより、(何かを)信じて待つということである。待つべきものは、何か。それは信仰の教える希望の内容(神の国)であろう。私自身の中で、それがまだまだ明確ではない。それが死に対する焦燥となっている。
 焦っても仕方ない。これからでも「しっかりと」聖書を読み、主に信頼して祈っていこう。「ね、あなたもそう思うでしょ?」と、亡き人に語りかけてしまった。

ゲーテ「月に寄せて」D259を聴いて

 ヨハネ受難曲の第19曲に「思い見よ、わが魂よ」というアリオーソがある。その曲を歌っていたジーグフリート・ローレンツという歌手が気になり、やっと、「ゲーテの詩によるシューベルト歌曲集」というCDを見つけ、久しぶりにドイツリートを楽しんだ。表記の曲はその中に入っていたものである。
 美しい音楽だけれどイマイチ歌詞が胸に落ちない。ドイツ語の詩や訳文を引用するのは省き、以下に私なりの詩の解釈を記す。
 「月光が(真昼のようではなく)風景をおぼろに照らし出すと、外界から潜み隠れていた自分(詩人)の魂も解き放たれる。あたかも親しい友の前にいるように、気兼ねなく自分をさらけ出す事ができる。川が、時には穏やかにまた時には荒々しく流れて行くように、自分も様々な喜びや悲しみを体験しつつそこから離れ去って行った。自分は決して満ち足りた幸いを味わう事はないだろう。(恋や事業や学問や)それぞれを追い求めずにいられないけれど、そこに留まることはできない。そして流れの音のように詩を生み出していく。しかし、そのような自分とは別に、もう一人の自分がいて、まるで月が天上から眺めるように、地上で喜び悲しむ自分を観察している。そのもう一人の自分を友とし、人知れぬ思いを語り合うことができるならば、どんなにか幸いだろう」。
 つまり、月を見上げて人生の哀歓をどこか遠くに感じ、それらを超えた存在に憧れを感じるという事なのだろうか。月に心を慰められている事は分かるが、まだ自足し満ち足りた状況ではないように思う。
 ゲーテのような天才と比べることはできないけれど、私だって自足してはいない。人間誰しもそうであろう。だからこそ、何かを求める。私の場合、それは信仰だった。だが、別のものを追求する人もいる。社会的理想や、学問や、人間同士の愛とか、様々である。しかし、そうした対象を追求し続けることで、満足できるだろうか。ゲーテファウストの最後のシーンで、ファウストを天上に導く天使達は「我らは、努力する者(追い求める者)を救うことができる」と歌っていた。それはゲーテの結論である。
 でも、もっと幸いなのは「求めずして得る」事や「思いがけなく見出される」事であろう。福音書の譬えにあるように、女が失った金貨を見つけて喜ぶように神が人間を見出して喜び給う事を知る時、ファウストではないが私は「時間よ止まれ。私は満足したから」と言えると思う。だから、この詩の感覚は私にはついていきにくい。

市川喜一著:「福音の史的展開Ⅰ・Ⅱ」

 私はクリスチャンホームで生まれ育ち、教会で知り合った人と結婚し、生涯にわたって聖書を読み、説教を聞き、キリスト教関係の読書をしてきた。だが、少し掘り下げて読もうとすると、同じ福音が、新約聖書の文書毎に多少異なる事に気がつく。「律法の一点一画も滅びない」マタイ伝、「律法からの解放」のパウロ文書、牧会書簡や黙示録、それぞれニュアンスが異なる.。これは、違った状況で生まれたからであろう。だが、現在の私自身がそれら全体を通して何を聴き取るべきか、時に混乱してしまう。
 この本は、新約聖書の一体性を追求するため、イエスの復活から新約聖書の文書が生まれた二世紀初頭までのほぼ70年間をとりあげ、福音の史的展開に各文書を位置づけ整理している。ユダヤ教内に発生したキリスト信仰が、異邦人世界に進出していく過程、ユダヤ戦争により神殿が崩壊し、律法中心のユダヤ教からキリスト教が分離していく時期、それぞれの状況のどのような場所でそれぞれの文書が生まれたかを解説し簡単に内容を紹介している。こうした鳥瞰的な新約文書の捉え方は、学校の聖書の授業でも教会でも教えて貰えなかったから、非常に新鮮で「目から鱗」のような気持ちで読んだ。
 現在の私達は、使徒行伝でピリポなどのヘレニストキリスト者の伝道や、パウロの異邦人への伝道に親しんでいるが、エルサレムに残った十二使徒や主の兄弟達の活動についてはほとんど知らない。だが、十二使徒や主の兄弟達が世界伝道命令を受けて、ディアスポラユダヤ人社会に伝道しイエス伝承を伝え、そこから福音書が生まれた事は興味深く読んだ。パウロ自身はイエス伝承を知っていても、直接自分が体験した復活者キリストを宣べ伝えて、書簡やパウロによる福音書というべきロマ書を執筆したのであった。
 勿論、各文書毎に詳しく読むべきであるが、福音が展開していく中にその文書を位置づけできれば、自分の状況に適応させ易い。信仰を教義や教会制度に固定化させるのではなく、こうした福音の展開に照らし合わせつつ、キリストの光を現在の自分をスクリーンとして反映させることが「絶えず改革されていく」戦闘の教会の任務であろう。
 上下二冊の分厚い本であるが、神学論文を充分に読みこなした上で、信仰の助けのために書かれている。こうした作業は、著者の生涯をかけた伝道と聖書研究から生まれたものであり、単なる学問的研究以上の熱を感じ取ることができる。また、哲学や神学を専攻した人でなければ読めない狭い意味の専門書の難解もなく、私のような永年の信仰者も、また信仰に入ったばかりの人にも非常に参考になる信頼できる本である。(ただし、一般書店では販売されておらず、インターネットの「天旅」ホームページにアクセスし、郵便振替で申し込む必要がある。)
 まだ全部読み終えていないが、これから聖書を読む上で参考にしたい良書に出会ったと思っている。

ブラームス:ドイツ・レクイエム

 泊まりに来ていた孫達が帰った正月2日、仲良しの従姉妹が訪ねてきた。彼女は家族と同居しているので、音楽好きだが遠慮してなかなかステレオを聴いたりピアノを弾いたりできない。そこで一人暮らしの私の家で、思う存分音楽を聴きたいとのこと。食べる物でのおもてなしは、お互い年のせいで限界もあり、喜んで一緒に音楽を聴くことにした。彼女の持参したDVDは私のプレイヤーがブルーレイ対応でないのでかけられず、私の手持ちのCDの中で選ぶことにした。彼女が選んだのが、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」である。
 これは数十年前、名曲喫茶バリトン独唱と合唱の掛け合いを聴いて惹かれて購入した物で、何年も聴いていなかった。演奏も相当古い。二人でステレオの前に座り、歌詞を確かめながら、大音量でじっくりと聴いた。
 カトリック典礼で用いるレクイエムは、ラテン語の歌詞だが、ブラームスは自分でルター訳ドイツ語聖書から歌詞を選び、ヘンデルメサイアのように全曲が聖書の言葉で構成されている。自殺したシューマンや孤独のうちに世を去った自分の母への思いを込めて作曲したと言われているが、彼らへの哀悼だけでなく、自分自身を含めた人間の儚さを嘆き、聖書にそれを乗り越える慰めを見出そうとしたように思う。
 歌詞は次の通り(意味が分かればいいので日本語のみ)
第1曲「悲しんでいる人は幸いである」合唱
悲しみを背負う人たちは幸いである。なぜなら彼らは慰められるはずだから。(マタイ福音書5:4)
涙とともに種まく者は、喜びとともに刈り取るだろう。彼らは、貴重な種を携えつつ泣 きながら出て行き、喜びとともに収穫の束を持って帰ってくる。(詩篇126:5-6)
第2曲「人はみな草の如く」合唱
全ての肉体、それは草のごとく、そしてその栄華は草の花のようなものである。草は枯 れ、花は散るのだ。(ペテロの第一の手紙1:24)
だから今は耐え忍びなさい、愛する兄弟たちよ、主の(復活される)将来まで。見よ、農夫は、大地の尊い実りを、耐え忍んで待っている。朝の雨と夕べの雨があるまで。(ヤコブの手紙5:7)
全ての肉体、それは草のごとく、そしてその栄華は草の花のようなものである。草は枯れ、花は散り落ちるのだ。しかし主の言葉は永遠に残る。(ペテロの第一の手紙1:24-25)
主に救われた者たちは帰ってきて、その頭上に永遠の喜びをいただき、歓呼とともにシオンに向かってくるだろう。彼らは喜びと楽しみをつかみ取り、悲しみと嘆きは去るに違いないだろう。(イザヤ書35:10)
第3曲「主よ、わが終りと、わが日の数の」バリトン独唱と合唱
主よ、私には終焉があるに違いなく、私の生命には終点があり、私はそこ(生命)から去らねばならない、と教えてください。(詩篇39:4)
見よ、私の日はあなたの前では束の間であり、私の一生はあなたの前では無に等しい。ああ、まことに、全ての人々は無のようである。そんなに確固に生きていてさえも。(詩篇39:5)
人々は影のようにさまよい、彼らはむなしいことのために騒ぎまわるのです。彼は積み蓄えるけれども、誰がそれを収めるかを知りません。(詩篇39:6)
正しい者の魂は神の御手のなかにあり、そして、いかなる苦悩も彼らに触れることは無い。(知恵の書3:1)
第4曲「万軍の主よ、あなたのすまいは」合唱
万軍の主よ、あなたの住まいはいかに快いことでしょう。(詩篇84:1)
わが魂は、主の前庭を恋しがり、渇望し、わが身体と心は、生ける神の前で喜びます。(詩篇84:2)
あなたの家に住み、常にあなたを誉め讃える人に、幸いを。(詩篇84:4)
第5曲「このように、あなたがたにも今は」ソプラノ独唱と合唱
今、あなたがたには悲哀がある。しかし、私は再びあなたがたと会うつもりである。
その時、あなた方の心は喜ぶはずだ。何人もその喜びをあなたがたから取り去るなかれ。(ヨハネによる福音書16:22)
私を見なさい。私は、辛苦と労役の短い時を持ったにすぎないが、大いなる慰めを見つけたのだ。(シラ書51:27)
母がその子を慰めるように、私もあなたがたを慰めよう。(イザヤ書66:13)
第6曲「この地上には、永遠の都はない」バリトン独唱と合唱
この地上には永遠の都はない。私たちは将来のもの(都市)を求めているのだ。(ヘブル人への手紙13:14)
見よ、私はあなたがたに奥義を告げよう。私たちは皆、眠り続けるのではない。最後のラッパが鳴る時、一瞬に、突然にして変えられるのである。というのは、ラッパが響いて、死者たちは朽ちないものとして復活し、私たちは変えられるであろうから。(コリント人への第一の手紙15:51-52)
そのとき聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利へと呑まれてしまった。死よ、汝のトゲはどこにあるのか?地獄よ、汝の勝利はどこにあるのか?」(コリント人への第一の手紙15:54-55)
主よ、あなたこそは栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。なぜならあなたは万物を造られたのです。あなたの意志によって、万物は存在し、また造られたのであります。(ヨハネの黙示録4:11)
第7曲「今から後、主にあって死ぬ死人は」合唱
今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。「然り」と御霊は言う、「彼らはその労苦を解かれて休み、その仕業は彼らについていく。」と(ヨハネの黙示録14:13)

 演奏はクレンペラー指揮で古いが、フィッショー・ディースカウ(バリトン)とシュワルツコプ(ソプラノ)の全盛期で大変に美しい独唱である。黙って聞いているうちに、キリスト教伝道者として労苦と貧窮の生涯を送った、私達二人の両親や年長の従兄弟達を思い出して胸が迫ってきた。第6曲で終りの日の勝利が歌われ、終曲の「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、その仕業は彼らについていく。」と続くるところで、思わず涙がこぼれてしまった。コリント書にも「主にあっては、あなたがたの労苦は無駄になることはない」とあるが、人間の生涯は死によって終わるのではなく、キリストによって終りの日の勝利が約束されていることを思い、深く慰められた。音楽で感動したのか、それとも個人的な想いで涙が出たのか分からない。だが私達二人とも70才を超えて、若い日とはまた違った感動を音楽から受けるものだと改めて思えた。
 その後は、軽くバッハやベートーヴェン管弦楽組曲やピアノ協奏曲を聴いた。しばらくぶりでクラシック音楽に浸りきった一日を過ごし、その晩は興奮してなかなか寝付かれなかった。
 家族の世話や仕事が忙しい若い日には味わえなかったこんな楽しみも、老後に発見できるものである。

六条院でのリベンジ(源氏物語妄想)

 竹橋の丸紅ギャラリーで、源氏物語若菜の段の女楽のくだり「明石の御方」の衣装を復元展示していると聞き、さっそく行ってきた。文字通り、復元された平安時代女房装束と生地、それと対照させた現代皇室の衣装の写真パネルだけの小規模展示で、少し物足りない気がしたが、生糸問屋だった丸紅ならではの衣装についてのこだわりだったのだろう。
 当時の紫は、現代の染料とは違う草木染めなので野菊のような「薄紫」である。その上に柳の織物の細長、萌黄の小袿を重ね、身分の高い方と同席なので羅の裳を軽くかけて卑下した衣装が展示されていた。今回改めて気がついたが、下着と袴の上に最初に着る重袿(かさねうちぎ)は複数枚(展示されたものは五枚)着るので、全体は下着と裳を除いて八枚の衣が少しずつ重なり合って見え、色彩のグラデーションになっている。色の重なり合いを楽しむ襲の色目は、平安時代ならではの美意識であろう。残存する平安末期の義経の鎧や、経箱の紐など、当時の色彩の美感を偲ばせる。
 とはいえ、単に染めや織りに興味があった訳ではなく、源氏物語のヒロインの中で私が最も推しなのが、「明石の御方」だから展示会に足を運んだのである。彼女は、受領の娘という、本来なら女房にも採用されない低い身分ながら、父の領地に流されてきた貴公子「源氏」と、旅先の一夜妻のように関係を持つ。さりながら、貴婦人とも見まごう気品と教養、特に琵琶の演奏には特別の才を持っていた。源氏との間に、将来「明石の女御」となる女の子を授かり、上京し、その子を東宮の妃とするために紫の上に預ける。最終的には、源氏のハーレム「六条院」に引き取られ、娘入内に際し付き添いとして一緒に宮中に入る。娘「明石の女御」がお産のため里帰りで六条院に戻った際、源氏の正妻「女三宮」、愛妻「紫の上」と、女楽を催すなかに琵琶を担当する。女楽の催しは、光源氏が頂点を極めた時の出来事として語られている。女御、内親王、宮家の娘という高貴な女達に交じって、明石は少しも見劣りせず、「花も実もうち具した橘」、と源氏を感嘆させている。そして女楽四重奏の中でも、琵琶は一際気高く際立って聞こえたとある。
 漫画で「悪役令嬢」ものというジャンルがある。いい子ちゃんのヒロインに婚約者の王子をとられ、国外追放された悪役令嬢がリベンジを果たすストーリーである。女性は誰もがシンデレラのように王子様から愛されるわけではないので、愛されない意地悪な姉達に自分を重ねて応援したい気持ちを持っている。六条院は元々は、源氏に愛されなかった六条の御息所の邸宅であり、その娘の斎宮中宮にするために、後見人となった源氏が中宮の実家として増築し、関係を持った女性達を住まわせてハーレムにし、栄華を極めた場所である。だが、御息所は物の怪になって彼に祟り、最初に正妻「葵の上」を殺した後、六条院で最も身分高い女三宮を出家させ、愛妻紫の上を殺す。結果、六条院は、皇后・国母となって頂点を極める「明石の女御」の実家として、源氏亡き後「明石の御方」が支配し采配を揮う場となり、ここを「玉と磨きし」は唯この御方のためであったかの如くなる。受領の娘として永く卑下し、忍従の生活に耐えた「明石の御方」が、源氏の愛に頼らず、国母の母として独立した身分と地位を獲得するのである。
 地位も教養も美貌も欠けるところない貴婦人、六条の御息所が、源氏に愛されなかった恨みを、最も身分低く源氏の一人娘の実母としての扱いしか受けなかった明石の御方が果たしたと、悪役令嬢のリベンジにならって考えることもできる。光源氏は、結局、最も愛した「紫の上」に誠実を貫けなかった事を悔やみつつ死ぬ。あんなに情熱的だった朧月夜でさえ、彼を見捨てて先に出家する。それもまた、かっこいい。そんな事を考えつつ、帰宅した。

立教大学メサイヤ演奏会

 アルバイト先で知り合った友人と、もう10年近く毎年メサイア演奏会に行っている。主に上野の文化会館の芸大演奏会だったが、今回はじめて立教大学メサイヤ演奏会にいった。アマチュアの学生中心とはいいながら、キリスト教主義学校らしく信仰の心を込めた演奏であることが、ミッションスクール出身の私には何よりも素晴らしく思えた。「この曲を歌うのに一番大事な事は、信仰を持って歌うことです」と音楽の先生に教えられた通りだと思うからである。舞台上部に十字架が掲げられ、演奏の前に大学チャプレンの祈祷があった。
  五味康祐メサイアについて「もし音楽教師であったなら、この曲の合唱を教えて生涯を貫き、良い仕事をしたと満足できるだろう」と書いてるが、その通りに中高の6年間を通じてメサイアの合唱練習をさせて戴いた事、母校に深く感謝している。第一部「預言と降誕」、第二部「受難と救いの完成」と何曲か省略があったが歌い進み、第二部の終りのハレルヤコーラスは、ロンドン初演以来の伝統に従い、聴衆も立ち上がって一緒に歌った。聴衆用のハレルヤコーラス楽譜が、無料で配られたパンフレットに印刷されており、お陰で高校卒業以来何十年ぶりでハレルヤを歌うことができた。さすがにソプラノパートは高音が出にくく、その箇所だけアルトパートで歌ったが、聴くだけでなく自分も合唱に参加できるのが、ただ聴くだけとはひと味違って楽しかった。聴衆も卒業生が多いせいか、殆どの人が一緒に歌っていた。
 第九の演奏会もそうだが、会場が音楽によって一体になる感動が味わえた。独唱もそれぞれ素晴らしかったが、特に第三部のバスのレシタティーヴとアリア「私はあなた方に神秘を告げます」以下のコリント前書15章を歌う部分は、霊的に燃え上がる信仰的確信を表現する名唱であり、まだ全曲が終わっていないのに歌い終わると拍手が起きた。こう言う、聴衆と演奏者の一体感のあるコンサートも親しみがあって良い。
 メサイア仲間もお互い八〇代、七〇代後半になると、体力的に夜のコンサートが負担になってくる。だが、もし来年も元気にいられたら、また来ようね、と言って別れた。また来年も、ハレルヤコーラスが歌えるように元気でいたいものである。