先日、亡夫の友人から大学時代の同窓会を兼ねて記念会(偲ぶ会)を催さないか、とお声がけがあった。彼への友情のなんとありがたい事。当初、そんな集いがもしできればと喜んだ。しかしよく考えると、青春の思い出を共有する方々の中で、私が思い出すのは、主に彼と苦労を共にした事ばかりのような気がした。それに何より、もはや彼の妻として振る舞いたくない自分に気がついた。そんな訳で、せっかくのご好意のお申し出であったが、思い切ってお断りした。 勿論、私は夫を愛していたし、彼には私なりに実を尽くしたと思う。だが、子供はとっくに独立し、夫亡き後は気楽な一人暮らしをこれ程長く続けていると、もはや家族内の立場(妻、母、祖母)を失い、独立した個人になりきっている。親世代はとっくに見送ったし、子供や兄弟もそれぞれ別所帯で、お互いあまり責任のない間柄になっている。退職後は職場での立場もないから、ほとんど全くの孤独な個人となっている。
聖書に、夫が死ねば妻は夫との関係から解放され自由になる(だから、別の人との結婚も可だし、独身のままでも良い)とある。また、兄弟達と次々に結婚した女は、復活後は誰の妻になるのか、との質問に、イエスは神の国では娶ったり嫁いだりすることはないとお答えになられた。(この部分、生前の間柄は死後も続くと「羔羊の婚姻」を書いた藤井先生はどうお考えになるのだろう?)つまり、死後神の前に立つ時には、生前の立場が何であったかもなく、ただ孤独な一人の人間となる。だから、老人となり世を去る迄の短い間は、社会での色々の立場から離れ、神の前に一人の罪人に過ぎない自分に気づく時であろう。果たしてきた事、望んでも叶わなかった事、色々な夢や目標を追って人生を過ごし、結局は神の御手の中にあることに気づいて感謝すべき時なのであろう。
老いの怠惰には警戒しなければならないが、聖書に慰められつつ、現在はただあるがままに静かに暮らしたい気持ちである。
「山かげの岩間をつたふ苔水の、かすかに我はすみわたるかも」良寛