inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「パイドン」読後感-魂が死後も存在するか

 読中感のみで終わらせるつもりだったが、やはり全体を読んでの感想書きたくなった。
 「パイドン」はプラトンパイドンから伝え聞いたSの死の有様を核とした、プラトン自身の生と死についての「言論」、と考えてよいだろう。報告者パイドンは、Sが毒杯を呷った瞬間、それまで何とか涙を抑えてきたのであるが「すっかり飲み干されたのをみたときには、もう駄目でした。われにもあるず、どっと涙があふれでて、私は顔を覆ってわが身を嘆きました。そうです、あの方を嘆いたのではありません。私自身の運命を嘆いたのです。私はなんという友を奪われてしまうのか」と語っている。Sの死は、彼に親しい者達に当然、悲嘆の情を起こさせるであろう。特にパイドンは、Sによって奴隷(男娼)の身分から解放されたのであり、彼を慕って故郷に帰ろうとせずアテネに留まって仕えてきた。Sに依存する度合いは、アテネ市民の弟子達より一層深かったであろう。そのような彼をSが愛撫しいたわり、残される弟子達と共に、独り立ちしてこれからの生を「より善く生きよう」と決意させねばならない。その為に、Sは弟子達と討論したのであった。
 その期待に応えて、パイドンは故郷に戻りエリス学派を立ち上げた。Sが植え付けた「真理への種」を自分自身において発芽成長させ、他に広めるためである。プラトンら他の弟子達も同じであった。「イデア追求」であれ何であれ、伝えられた信仰や信念は自分自身が生き実践するものとせねばならない。Sが書き言葉を嫌い、対話による交流を選択した意義が、よく理解できる事例である。
 しかし、哲学者は「死を修練する者」というのは、戴けない。魂を自己とすれば、魂(霊魂)が生死を超えて存在し続ける事の証明は、魂が「善く生きる」為に、敢えて肉体的死をも選び取る事から出発すべきであろう。Sが脱獄を拒否したのは、それが今まで実践してきた「善く生きる」事に反すると考えたからである。と言うことは、自己自身である彼の魂が、死後消滅したり無力で影のような存在となるとは思わなかったから死を恐れなかったのである。むしろ、肉体にあって「善く生きた」魂は、死後、一層より善く幸いな存在としてあり続ける事を確信しえたからである。
 だが、これを理屈で証明するのは不可能である。また、生前からの存在を想起説で説明し得ても、ケベスが提示した「例え肉体より長持ちしても、いつかは消滅する可能性」は否定できない。
 結局、否定し得ないことは、成長したり衰えて死ぬ運命の肉体に対し、自己同一性を保ち人間における自己自身である魂が、現在存在し生きている、と言うことだけである。では、死によって限られたこの生を、如何に善く正しく生きるべきか、この点から哲学が出発したのである。
 そこでまず、「魂が死後も存在するかどうか」考えてみると、
A.肉体の死と共に魂も消滅するとした場合、「いざ我ら飲み食いせん」(パウロ)ではないが、他を押しのけても自分の快楽と幸福を各自追求するような結果となり、「善く生きる」ことにはならない。ほぼ、すべての文明がこの考えを退ける。次に、
B.死後も魂は存続するとした場合、生前の行いに応じて報いがある因果応報説が当然想定される。その場合、死後の魂が生前の報いとして受けた状態がそのまま持続するかどうかで、二つに分かれる。
 そのまま持続するとした場合、因果の結果が良くて幸いな状態(天国に住むなど)に留まれれば良いが、地獄に墜ちるような悪い状態が永遠に継続するのでは最悪である。そのくらいなら、Aのように、肉体の死と同時に魂も消滅した方がよい。
 死んで魂だけの状態が持続しないとした場合、
 a.まず一定期間魂だけの状態でハデス(黄泉の国)にいた後、他の存在として「生き返る」ことが考えられる。つまり転生説である。その場合、普通は前世の因果により「六道輪廻」すると考えるであろう。永遠に繰り返す輪廻から抜け出し、幸いな状態に留まろうというのが仏教でいう解脱のような方法である。修業により解脱を追求するのが自力、阿弥陀仏などの本願によるのが他力仏教である。
 ただ、輪廻するとしたら自己同一性を保つことは不可能である。従って死後のより善い生のために「善く生きよう」とするかも知れないが、現在生きている自己は死と同時に消滅することになり、Aの場合と似たような考えになる。
 b.転生しないとした場合、煉獄のような場所で一定の浄化や修業のやり直しをすれば、より善い状態に変化可能である、という考えもある。だが、浄化や改善不能な者は、B①の場合と同じとなる。
 Sは、死を恐れずむしろ喜んで死のうとするのは「第一は、死後、この世を支配する神々とは別の賢くて非常に善い神々のもとにいくだろうという事。第二は、この世にいる人々より優れた死者達と共にいる事になるだろうからと言うこと。第二の点は、おそらくであるが、第一の点については確信している」と述べているから、自分自身についてはB①の至福の状態で魂が死後存在し続けることを信じている。その他の人々については、生前の因果により、同じく至福の状態にとどまるか、あるいはB②で、a.転生するか、b.死後の浄化や修業により至福に至るか、地獄状態に留まるかするだろうと考えているようだ。ただし、魂が神のような(始めも終りもない)永遠の存在かどうかは不確かである。
 以上に対し、キリスト者はどう考えているのかまとめてみた。
(1)まず、哲学をするのは「善く生きよう」とする人間の意志によるが、キリスト信仰に入るのは「神の召し」による。神が人間を求めて呼びかけ給うから、人間の魂はこれに応じて神を求める、とする。「神よ、汝に出会うまではわが魂は安きを得ず」(アウグスチヌス)と、魂に飢え渇きを覚えて求める場合もあり、求める前に教えられ与えられる場合もあり、様々なケースがあるが、信仰に入るのは神の選びであり、人間の意志ではない。
(2)魂の不死不滅については、創造信仰により、被造物である人間は、存在の始めがある。具体的には、生まれた時点から存在が開始する。終りについては、肉体が消滅しても魂は消滅せず、永遠に存続する。旧約聖書では、死後の魂は影のような無力な者として黄泉に行き、特別な人は(エノクやエリアは身体のままで、その他の人は魂だけで)安息の状態で天の「アブラハムの懐」という場所に行き、最後の審判までそこに留まるとされている。そして、最後の審判で、すべての死者が神の裁きを受け、天国か地獄に定められ、そこに永遠に留まる、とする。本流ではそうだが、ダンテの神曲のように死後直ちに天国や地獄、あるいは煉獄にいくと考える人もいる。
(3)善の基準は人間同士の倫理ではなく、「あらゆる善の源」である神との調和である。被造物はその本性上、「神の永遠の力と神性」を知りうる、とパウロはロマ書で述べている。(従って、キリスト以前に生きたSも、なにがしかの「善の源」の呼びかけを感じ、そこに向かって哲学したのではないか、と私は感じた)。ただし、人間が応答すべき相手として神が御自分を啓示されたのは、アブラハムに始まる。そして、選ばれた民族イスラエルモーセ契約による関係を締結された。契約(律法)を守る事が、神との調和である。
 しかし霊的な律法を、(神に叛く)肉にある人間が完全に満たすことはできない。結果、(肉にある)人間はすべて神に叛く罪人であることが明らかにされた。
(3)そこで、神御自身がナザレのイエスという人間として生まれ、魂も肉体もまったく人間の弱さを持ちながら、なお肉にあっても死に至るまで完全に神に従って生きられた。その死は、肉にあるすべて人間の神への叛きを代理し、神の怒りと断罪を受け、黄泉に降り、その(肉にある)生と死が神に従う義人(人間)として三日目に復活された。もとの肉の身体ではなく、身体も魂と同じく自己同一性を保つ霊的身体である。御自分の死が贖罪であり、霊的身体への復活が人間の至福の生(魂と身体を供えた)の開始であることを、一定期間宣べ伝えた後、昇天し神の右(神に代理して万物を支配する座)を占められた。彼の霊(聖霊)を分け与えられた人間の魂は、死後天にいます彼の元にいき、最後の審判までそこに留まる。また、最後の審判において、彼が万物を裁き給う。彼に属する者は、終りの日に彼と同じ霊の身体に復活し、永遠に神と偕なる命を生きる。反対に、彼を受け入れない者は、永遠の滅びを受ける。
 以上、Sらの哲学と全く異なるのは、イエスの死という歴史的事実と彼の復活の意義を信じるか否かである。Sらの哲学が最善と思われる「仮定」から出発するなら、キリスト信仰は、イエス・キリストの死と復活を証するペテロら使徒の証言を「現実」として受け入れる事によって出発する。その「現実」にふさわしく生きかつ死ぬことが「善く生きる」ことであり、自分と世界を創造された神を愛し讃美することになる。
 しかしシミアスが言うように「事柄の大きさと、人間の弱さを考えると、なお不安を持たざるを得ない」のが、人間の正直な本音であろう。だが、キリスト者は、神が自分を愛し呼び求めて下さった愛に応え、イエス・キリストに属する者であり続ける事を祈り求めるのである。
 なお、アウグスチヌスの「告白」は、プラトン主義を経てキリスト信仰に至るまでの、彼の魂の遍歴を実に克明かつ正直に告白しており、S後500年以上経た時代の真摯な魂の死生観を見る思いがする。私自身としては、「明日は炉に投げ入れられる野の花」であっても、その存在で神の栄光を反映し顕しているのならば、自分なりに信仰に従って「善く生き」、この人生をもって神の栄光を顕したいと願っている。