inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ゲーテ「ファウスト」読書の記憶

 小学校の三年生か四年生のころ、クラスで隠し芸大会があった。手品や日本舞踊など、当時はお稽古事が盛んだったからなかなか芸達者のクラスメートが多かった。そこに混じって私は紙芝居を演じた(何をやったかは忘れたが、図書館から借り出した童話だったと思う)。やんやの喝采で、「アンコール」「アンコール」のかけ声がかかり、アンコールまで用意がなく困って、とっさに「ゲーテの詩を暗唱します!」と言ってしまった。(父がゲーテを愛読しており、面白がって私に暗唱させていたのである)。「では、『旅人の夜の歌』。”すべての山々の上に憩いあり…(以下略)」と、はじめて、「しばし待て、我もいこわん」と、堂々と暗唱し終えた。だが拍手もなく、一同ポカンとした反応しか示してくれなかった。
 大人だって解釈が難しい詩を、訳も分からず子供が暗唱したのだから、先生もクラスメートも呆れた事だろう。思い出すと恥ずかしいやら可笑しいやらで、一人で苦笑してしまう。
 そんな次第だから、ゲーテファウストは物心ついた時から知っていた。十代で始めて翻訳を読んだ。以下は、その頃の私の感想である。
 ヨブ記をまねた天上の序曲は、三人の天使達が創造された世界を眺めて「このさまを見るだけで天使らはみな強みを覚える、(以下略)」と称えるシーンは美しく心に残った。それに続く第一部は、ファウスト博士の絶望には大して同情できず(いい気なものだなどと思った)、簡単に気を取り直すのもあきれるが、聖書の翻訳を原文に忠実に翻訳しようとしないのも気に入らなかった(「始めに言葉ありき」を勝手に「始めにありき」などとしている)。メフィストと出会い酒場で学生を驚かせたりするのは面白かったが、グレートヒェンとの恋愛で彼女を破滅させたのには怒りを感じた。しかし、これだけリアルにグレートヒェンの絶望とファウスト(ハインリッヒ)の実のなさを描けるというのは、作者ゲーテ自身の体験と罪の意識があるからだろう。一応、自分の裏切りを申し訳ないと思っているのだ。
 そして第二部。政治に関わって紙札を乱発するのは(インフレになるから)無責任な悪魔の所業だと思った。その後のワルプルギスだの、ホムンクルスどか古代のヘレナとの出会いや別れは、当時の上流知識人の関心事のようで殆ど分からず面白くなかった。
 最後に海を埋め立てようとして立ち退かない老夫婦を殺してしまうのは権力者の罪であり、憂いの霊に盲目にされてしまうのは当然の報いである。そして自分の墓穴を掘る音を、海を干拓しようとする作業の音に聞き違いして「時よとまれ、そはあまりに美しければ」との言葉を吐いて息絶える。「ざまあ見ろ」と言いたい処だ。メフィストが勝利したかと思いきや、天使達が「我らは、努力する者を救うことができる」などといって、ファウストの霊をさらっていくのはズルとしか言いようがない。
 それに、罪を悔いる女でかつてグレートヒェンと呼ばれた女が、神曲ベアトリーチェよろしく、ファウストの霊を天上へと向かわせるのは、どうにも納得できなかった。 「永遠の女性、われらを高みへ引きゆく」など、手前勝手な事を言うなと言いたい。他者を犠牲にして自分が向上しようとした男(ファウスト)が、踏みにじった相手の女に期待できる事ではないだろう。
 ファウストは信仰がないことを告白しているが、作者のゲーテは自分の考える人間的宗教(キリスト教とは似て非)で救済させている。イエス・キリストの十字架の贖いと復活もなし、悔改めたのはどう見ても被害者であるはずのグレートヒェンだけとは、いただけない。(ファウストは、悔改めなしで救済される!)
 詩人としては最高の人だろうけど、美のイデアに入れ込みすぎるのは人間としてはヤバいんじゃない?など、せいぜい頑張って読んだ当時の私の感想だ。
 しかし、人生も終りに近づいた今、ゲーテの詩によるシューベルトの歌曲を聴いて、今さらながら詩(言葉)のもつ、一種デモニッシュな魅力を思い出した。本棚から探し出してぱらぱらと読み返した。最初読んだ時は、殆ど気がつかなかった前座の詩人や座長、道化の会話など、気が利いた警句が面白い。座長が詩人に、とにかく色んな事件を詰め込んで下さいと要望し、「そうすりゃ、…めいめいが自分の心の中にあるものを見つけ出すのです」とか「若い連中は、すぐにも泣いたり笑ったりしてくれる。…ところが出来上がってしまった人間は、何を見せても受けつけない」など、きっと私は「出来上がってしまった人間」で、世の中のあれこれを見ても同情できなくなっているのかも、などと思ってしまった。
 ダンテの神曲も、政敵へのあまりの憎悪にうんざりさせられるが、詩としては素晴らしい。そして代々の絵描きに、素晴らしいイメージを提供してくれた。ゲーテの詩もやはり素晴らしい。神学的・信仰的には認められないけれど、凡人が見通せない先までも極め、ファンタジーの世界を言葉で表現してくれる。それにファウストにいちいち茶々をいれるメフィストが面白い。退屈しのぎにつまらないアニメを見るくらいなら、時々は読み返してもいいかなと、今は思っている。