inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

手束正昭著「キリスト教の第三の波」を読んで

 コリント前書14章は「異言と預言」とタイトルされている。(タイトルは今までの口語訳にはなく新共同訳からで、余計なものが付加された気もしないでもない)。内容は簡単で、「異言」は(異言の賜物を与えられた)その人を造り上げる(ここに言う「造り上げる=オイコドメオー」は、口語訳では「徳を高める」と翻訳されていた。建築物を建て上げるという意味から、共同体や人の繋がりを〝形成する〟や〝益する、強める、確立する〟という意味に使われる動詞だそうである)。一方、「預言」は教会=エクレシアを造り上げる。従って、集会においては一万の異言よりも、五つの言葉で「預言」する方が、「他の人を教えるためには」益となるから、解釈されない限り「異言」を控え、「預言」の賜物を熱心に求めなさい。と、いう内容である。

 霊的能力(霊感による異言や預言、癒やしの力)はエクレシアを「建てる=オイコドメオー」為にあることが教えられるが、実際には私自身「異言」や「癒やしの力」は話に聞くだけで、体験していない。どこか、よそ事のように読んでしまう。教会初期に出現したこうした能力が20世紀に入って超教派で復活し、ペンテコステ運動と呼ばれている。そこで、Ⅰコリント14章を深く学ぶためにも、こうした賜物=カリスマを知りたく同書を読んでみた。
 著者は日本基督教団牧師でティリッヒに傾倒した神学者である。親しみ易く身近に感じるのは、書斎にこもる神学者ではなく、学生運動ベ平連など現代日本の社会問題に関わられ、また宗教や信仰に関し泥沼のような「日本教」と戦いつつ牧会に携わっておられる実践的神学者である点である。私のような「宗教二世」は、親世代の信仰に育てられたが、またそれに反発し批判しつつ自分の信仰を形成してきた。特に反発や問題を感じたのは、信仰が内面化し実存の問題になりすぎている点である。それはつまり信仰の個人化内面化に結びつく。インテリばかり教会の中心になり学歴の低い人や庶民はほぼ世話されるだけの受身の人である。説教や聖書解釈に深く感動しても、それは自分個人だけであり、教会内の兄弟姉妹達との一体感や連帯に結びつかない。つまり共同体形成の方向に(自分の中においては)結びつかないのである。その点、ユーチューブで観た限りのペンテコステ派集会は、説教者の呼びかけに「ハレルヤ」とか「エーメン」などで聴衆が応答し、素晴らしい賛歌が湧き起こり全体が盛り上げっている。(但し、その呼びかけが「イエスは力ある方です」とか「聖霊は今この場におられます」とかだけで「主イエスを信じなさい」との信仰への呼びかけではないのが少し違和感がある)。
 「牧師の口と信徒の耳」だけが天国に行く、との皮肉がある。そのように、礼拝においては教職者だけが語り信徒は自由な応答すら抑制されている教会の現状は問題ではないだろうか。ブルンナーの「嵐の中の教会」では、牧師が何故教会に通うのか説教の中で信徒達に尋ね、「永遠への思いからです」との回答をもとに、信仰が永遠の命に関わる点からユダヤ人教会追放令が命をかけて戦うべき信仰の戦いであることを説いていた。そのような応答を求める説教や礼拝の在り方も検討されていいのではないか。その点、本書第二章「実践的展開」の「異言」関係部分を、一般信徒を応答へと霊的に解放する点で興味深く読んだ。
 信仰は、無意識の霊的領域に生起する。イエスを主と信じる信仰、つまり聖霊が宿り給うのは私達の霊の領域であろう。この御霊がある瞬間私達に訪れ、自分自身を全く主イエスに受け渡す体験をキリスト者は持っている。或る人は、ある瞬間、イザヤ書の「我、汝の名を呼べり。汝は我が物なり」という一文を、直接自分に語られた言葉として聴き、入信し献身を決意した。私自身も、そのような瞬間があり、それ以後、どんなに迷い、生活に心を失いかけても、自分はキリストのものだという意識に立ち戻る。決して特別に信仰深い訳ではないが、信仰の種とも言うべき聖霊が内在し給う事を感じる。著者はその内在する聖霊が、外に現れ溢れ出ることが「聖霊バプテスマ」であると言い、使徒行伝の按手(手を置いて祈る)により異言を語り出したという記事を引用している。初期教会において、異言は聖霊バプテスマの徴であった。だが、徴として用いられる他にも、異言には当人の無意識の霊性を徐々に高めていく効用があると言う。パウロも「異言を語る者は自分を造り上げる」と言っているから、その通りであろう。だが私としては「異言」を語りたいという気にはなれない。パウロが云うように、無言で霊において祈る事ができるなら、「異言」と同様の効果があるなら、その方が良い。アウグスチヌスの告白録でも、回心直後神に向かって「子供っぽい片言で話しかけていました」とあるから、「異言」として語り出されなくとも、聖霊は私達の無意識の霊的領域おいて祈らせて下さるであろう。告白録自体、彼の魂が「霊で祈」る事を「理性と言語において」祈り、それを書き表したものである。
 本書はその他にも「癒やしの力」について等、実践的問題を取り上げているが、私自身は神学者でもなく、既成の教会にむしろ反発を感じやすい者なので、あまり深くは読み取れなかった。教会形成の立場からペンテコステ運動に関心を持つ方の、偏らない解説を待ちたい。
 私個人の感想としては、本書から霊的能力が「教会を造り上げるため」の物である事を改めて教えられた。しかし、異言を語りたいと思えないと同じく、ユーチューブで観た「悪霊追放」騒ぎも、気持ち悪い感じが強く、集会に参加したい気が起きなかった。きっと異言を聴いたり、悪霊追放を見ても「ぞっとする」だけであろう。アウグスチヌスも「告白録」で、自分の歯痛が一同の祈りにより瞬間的に消失したとき、「ぞっと、しました」と述べている。そう感じる人は私だけではないのである。
 「異言」や「癒やしの力」のような賜物=カリスマは、語る当人や癒やしの受け手には感謝すべき事であるが、それ以外の人にはキリストが生きて働いておられる事の証明となる以外あまり益がない。場合によっては、どうしてあの人だけが恵まれ、それ以外の人は恵みの対象にならないのかと嫉みや悲しみを引き起こす場合さえある。ラザロは生き返った。だが、それ以外は死んだままである。こうした人目に立つ賜物=カリスマは「信じていない者のためのしるし」的性質がある。パウロが、霊的に非常に恵まれたコリント教会の人々に「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と勧告する意味が納得できた。結局、霊的に燃えれば燃えるほど、理性においても信仰を告白しうるよう努めねばならないのである。理性においての告白は「分け与えられた信仰の量りに従って、慎み深く」であるから、その人なりに教会での役割を果たすことになるのだろう。

 本書はペンテコステ運動を偏見や誤解から擁護し、健全な信仰を育成する立場から書かれているから運動への批判的なことはあまり書いてない。だが、ペンテコステ運動の中にも既成教会の中にも「忍耐と希望」の信仰を呼び起こす「預言」的要素が不足しているのではないかと感じた。本書を読み、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求め」るべき事を、改めて痛感させられた。コリント書を学びつつ、信仰的リバイバルが与えられる事を祈る。