inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

洗礼者ヨハネの最後

 猛暑とコロナ禍で引きこもるっていると、刺激がなくて本を読みたいという好奇心もなくなってくる。午前中のパート勤務を終えると、翌日の労働再生産に必要なこと以外何もせずゴロゴロと過ごしてしまう。

 それに、家庭礼拝でヨハネ伝を取り上げているので講解書を読むことになるが、これが酷く難しい。特にバルトの講解は、何を言っているのかさっぱり分からんという代物で難儀である。結果、毎日うんうん言いながらヨハネ伝の講解を読み、自分の限界を感じている。人との交流も少なくなり、時折、まだ若いはずの知人の訃報を聞いたりすると、生活の第一線を外れた自分や知人達の老いを淋しく思う。

 ヨハネ伝三章の終わりに、神殿で宮浄めをされたイエスがその後ユダヤ地方南部で洗礼活動をされたという記事がある。一方、洗礼者ヨハネはそこから遠く離れた「サリム近くのアイノン」つまりユダヤ地方北部のサマリアに近い場所で洗礼活動を続けていた。イエスから洗礼を受けたユダヤ人と、洗礼者ヨハネの弟子達が、洗礼について論争になった。イエス聖霊によって洗礼を授ける御方であり、水による洗礼はその徴とされているから、水による洗礼の意義についてヨハネの教えることと違いがあったのではないか。ヨハネの弟子達が師の洗礼者ヨハネの所に来て、「あなたが証された人(イエス)が洗礼を授けています。みんながあの人のところに行っています」と、告げ口をした。このままでは、師の教えが廃れてしまうと心配したのである。それに対し、洗礼者は「彼(イエス)は必ず栄え、私(ヨハネ)は衰える」と告げた。

 神の霊に満たされ、イスラエルが待ち望んだメシア到来の近さを予感し、その道備えとして悔改めの洗礼活動を為しつつ、到来する御方の前に自分はその靴の紐を解く価値さえないと畏怖した神の人ヨハネ、その彼が、待ち望んだメシア・イエスが活動を開始されたことを聞いて喜び、同時に、自分が役目を果たし終えて消え去ることを思う。その心中に、自分の最後を悟る悲しみはなかったのだろうか。それに、牢獄での斬首という無残な最後を予感できなかったはずはない。だが、それを上回るメシア到来実現を見た喜びがあったのだろう。

 洗礼者ヨハネとは比較にならない卑小な私だが、自分が過ぎ去ってゆく末路をこのように喜びに満ちて預言した洗礼者の言葉に感動する。老いは悲しい。もはや自分が誰の役にも立たず、若いときの能力も失ってゆく。しかし彼は、神の国が実現していくというより大きな希望を見たのだ。自分一箇の希望実現ではなく、神が人と共に住み、神に愛され愛し合う世界の端緒を見て喜んだのだ。老いと死を喜び迎えるためには、自分個人を超えたより大きな希望が必要なことをここから学ぶ。

 イエスは、牢獄のヨハネからの問いに次のように返答されている。「…貧しい人は福音を聞かされている」。孤独となり、体力や若い頃の能力も衰えてゆく「貧しい」私は、福音を聞かされて喜びつつ老いと死を迎えたいと思った。まだまだ、うんうん言いながらも聖書の勉強をしつつ年をとっていこう。