旧約聖書は、私達平信徒にはなかなか読みにくい。もし聖書日課になじんでいなければ、子供の頃の日曜学校で聞かされたお話(ヨナやエステル、ヨブの敬虔さや預言者エリアやモーセのエジブト脱出など)以外に、歴史書やレビ記などどのくらい読んでいただろうか。特に民数記など日課表になければ一度読んで終りにしたことだろう。聖書通読表に従って聖書日課をこなすのはクリスチャンホームの習慣であるが、日本では一般的ではない。私がC.ブロンテが好きなのは牧師の娘らしく聖書を繰り返し読んでいることが分かるからである。例えば「ジェーン・エア」に登場するロチェスター家家政婦、フェアファックス婦人も毎日日課表通りに聖書を読んでいる。またロチェスター家のパーティーの余興に、謎かけ無言劇をして「アブラハムの僕エリエゼルが、リベカをイサクの嫁に選ぶ場面」など、聖書に詳しくなければとても解けないだろう。だが、ただこうして漫然と切れ切れの断片として旧約聖書を記憶するだけでは足らない。旧約聖書神学など、語学的にも考古学などの学問的にも自分には歯が立たないが、それでももう少し体系的に学んでみたいと常に思っていた。
昔、ヴォルフの「旧約聖書の人間学」を読んで感銘を受けたので、たまたま書店の古本コーナでこの本を見つけ、読んでみた。その構成は、
序論「神学の主題としての旧約聖書」
第一部-歴史「歴史としての旧約聖書」
第二部-将来「預言」
第三部-現在「教訓書」…讃美と嘆き、知恵と教訓、謎と困惑、旧新、両契約の関係
結び「神学・教会、社会と旧約聖書」
となっており、私には第三部がとても参考になった。「日の下には新しいものはない。『見よ、これは新しいものだ』と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。」(伝道の書1:10)とあるとおり、私達人間は古代から現代まで何も変わらない。だが、神が新しい歴史を始められる。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き砂漠に大河を流れさせる。」(イザヤ43:18&19)。そして、イエス・キリストが誕生され、神の民の新しい歴史が開始したのであった。キリスト者個人と教会(信仰者の群れ)の生活において、旧約の先人達の経験が生かされねばならない。
マルキオンから始まってドイツ的キリスト教に至るまで、何度もキリスト教は旧約聖書を切り捨てようとする試みと戦ってきた。「律法と預言者」つまり旧約聖書の証なしに、福音は変質してしまう。これを今一度心に銘記しようと思った。
第三部付論の「解釈原理」で著者は、旧約聖書は新約聖書の言葉が誤解されないように守る役割があると言っている。それはどう言う誤解かというと「ただ個人の目標だけを教え、その上ただ精神的で、あの世的(来世的)な目標だけを示す」ことである。つまり、信仰をただ個人の内面に限定するという誤解である。そうではなく、福音を日曜日だけの個人的生活から、日常性の社会へと響かせねばならない。
著者は告白教会牧師として激戦地ロシア戦線に派兵されたが、「ドイツ国家にとり、抜きん出た価値のある学問的研究に従事する」為に特別休暇を上司(告白教会牧師の息子で、その後戦死した)から推薦され、与えらてこの論文を著作したそうである。危機の時代、命懸けで為された信仰の戦いの成果である。古い本だが、今日、新しく読むことができて感謝であった。