inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「カラマーゾフの兄弟」

 「大審問官」で有名なこの本は、誰でも若いときに一度は読むもののように考えられている。だが、私にとっては、自分の読書というより、子供の頃に父から読み聞かされた思い出が一番強烈である。30歳前後の青年であった父は、これを愛読していたのであろう。寝る前に小学生の子供達3人を集めて、「ゾシマ長老の年若き兄」の段落や、同じくゾシマ長老が8歳の時に教会の礼拝でヨブ記が朗読されたときの思い出、「大審問官」のくだり、などを夢中になって読んで聞かせてくれた。小学生に分かる筈がないと思うだろう。ところが、子供にとって読み聞かせは特別に印象深いものである。無神論にかぶれていたゾシマ長老の兄が亡くなる寸前に見せた神の世界への感激に対し、母親が泣き笑いしながら「どうしてお前、そんなことが言えるんだろうね」などというシーン、子供の私の柔らかい脳にはしっかりと目に浮かぶように刻み込まれている。また、「昔、ウズの地に、ヨブという者がいた」というヨブ記の出だし部分は、幼いゾシマ長老が感動して聴き入る場面と共に、旧約聖書を自分で読む前からこの読み聞かせで知っていたのである。(もっとも、イワンが収集している児童虐待事件や、犬にピンを刺したパンを食べさせるいたずらなどは、子供心にとても嫌らしくロシアの野蛮さに嫌悪を覚えたものだ。ところが近頃はそれ以上に恐ろしい児童虐待事件が頻発しており、当時のロシアだけでなく、現在の私達の社会に広がる闇に恐怖を感じている)。
 また、父の説教や文章のなかにも、ドストエフスキーは度々取り上げられている。だから親の影響から逃れるように、いつの間にか自分で選択して読みたいとは思わなくなっていた。
 ところが先日、書店でNHKの「100分de名著」テキストにこの本が取り上げられているのを見て、懐かしくて読み返してみた。やはり、ゾシマ長老の年若き兄の突然の回心は、私には訳が分からない。死の直前の病的感覚としか言えない気がする。それに、「神を胎める民衆」などと言ったナロード(民衆)信仰も、「素朴な敬虔な感情」といったものに置き換えねば、とても共感できるものではない。たまたまロシアは正教が根付いた土地であるけれど、日本や中国のような国ではそうはいかない。革命前の、頭でっかちな「社会主義」や「進歩主義」への批判と読み取るべきであろう。現代は無神論を基盤にした社会主義の失敗が、ソ連邦崩壊を例として実証されており、新鮮味がない。また、イスラム圏に広がっている宗教的政治改革も恐ろしく反動的であり、キリスト教を基盤とする世界的社会主義など考えたくもないのである。
 しかしながら、散々反発し、登場人物をいちいち気が狂ったような抽象的人物と考えても、やっぱり最後のアリョーシャと少年達の段落では、感動して涙がでてしまう。
 全体として共感できない作品であるけど、何故こうまで心に残るのだろう。それを少しずつ考えてみようと思った。