inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

亡き友との一方的会話

 最近、身近な人を見送って喪失感が大きい。葬式は、今流行の超簡素なもので故人の経歴紹介や告別の辞もなかったが、近親者や極親しい者ばかりなら必要もなく充分心のこもったものであった。それほど長命とは言えないけれど、80才近くまで生き、苦しみなく世を去ったのだから、当人の為に悲しんでいるというより、身近な人を失った自分の為に悲しんでいるのである。
 私としては、死は終りではなく、永遠の命の入り口であると信じている。だが、日常的に顔を合わせ、喋ったり笑ったり、一緒に行動してきた人と、もう地上で会えないことが自分の一部がすっぽ抜けたような喪失感になっている。私は目に見え五感で認識できる現世にいるが、私と親しく繋がっていたその人は「見えない」世界に移されてしまった。しかし、お互いの繋がりは絶たれてないと、ハッキリ感じる。と言う事は、現世にいる私も幾分かは「見えない」世界に属しているのである。
 そして間もなく、多分10年に満たない内に私も現世に別れを告げ「見えない」世界に移っていくのだろう。地上で出会い、心から親しみ愛してきた者達との別れは、どのようであろうか。黄泉とか「アブラハムの懐」とか呼ばれる復活前の死者の魂のいるところに移っても、彼らへの愛情と好意は持続し何もできないにしろ彼らの為に祈っていることだろう。そのような魂だけの状態で、かえって自由に地上の人々を見ることができるのではないだろうか。身体にあった時のように、場所や時間に制限拘束されることはない。また、地上にあった時の自分からも解放され、主の憐れみによって罪赦されているのだから、おそらく主の祈りにあるように、他者の罪をも心から許せるようになっているだろう。そうなったら、絶対に地上で出会った人を応援する。
 今私がそう思っているのだから、私と気が合ったその人も、「見えない」世界でそうしてくれている事だろう。では、私も気を取り直してしっかり生きねばならない。
 その「しっかり生きる」ことは、かつて若い日に考えたような充実した生き方とは少し違うように思う。何かを成し遂げるというより、(何かを)信じて待つということである。待つべきものは、何か。それは信仰の教える希望の内容(神の国)であろう。私自身の中で、それがまだまだ明確ではない。それが死に対する焦燥となっている。
 焦っても仕方ない。これからでも「しっかりと」聖書を読み、主に信頼して祈っていこう。「ね、あなたもそう思うでしょ?」と、亡き人に語りかけてしまった。