inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

バッハ・コレギウム・ジャパン「マタイ受難曲」コンサート

 3月29日、標題のコンサートに行ってきた。「マタイ受難曲」演奏会はそれ程ないので、主にCDでばかり聴いてきた。だが、今年は亡夫の七回忌でもあり、身近な人を見送ったばかりでもある。そこで、夜のコンサートは体力的に敬遠しているのだが、亡き人を偲び、思い切って出かけて見た。
 パンフレットは2000円と安くない。だが、鈴木雅明さんの懇切な解説と歌詞翻訳がついているので今後もこの曲を聴く上で参考になる。躊躇わず買って良かったと思った。勿論、演奏も申し分なく素晴らしい。バッハ当時は、女性は演奏に加わらなかったからソプラノ・アルトとも男性が歌ったのだろう。しかし現在は、殆ど女性歌手が歌っている。ところが、この演奏ではアルトをカウンター・テナー歌手が歌っている。CDでもたまにあるが、私には珍しかった。第二部導入部の「シオンの娘」が花婿(イエス)を探し求める処、男性が「シオンの娘」を演じて歌っているのが妙な気がする。しかし澄んだ力強い声で、女性というより信仰者の魂を表現しているのだからかえって適役なのかも知れない。
 大祭司の問いかけにイエスが沈黙しておられる場面の34・35 番のレシタティーブとアリアは、よかった。聖書のこの箇所を読む際、事件の進行に追われ読み飛ばしがちである。演奏を聴いていても、ドラマの流れを中断するように感じられる場合もある。だが、イエスが沈黙を守られた事に、苦境にある一人の信仰者が応答し、逆境や迫害にあえて抗うとせず、神を信じて耐え抜こうと決意する強い感情がこもっていて感銘を受けた。
 ペテロの否認とそれに続くアリアとコラール、いつも感動するが、今回はイエスの言葉を思い出して激しく泣くペテロよりも、否認する事を知っていてそれを赦し悔改めに導いたイエスの慈愛がことさらに深く胸に落ちた。イエスの愛はペテロを手放さず捉え、このような時にも彼を守ったのであった。
 42曲目の裏切り者ユダのアリア、無益な悔恨と題されていた。(彼の裏切りは、イエスを追い詰めて地上的神の国を打ち立てようとの企てがあったのではないか、と私は思っている)。だが、ユダは裏切りの対価を神殿に投げ捨て「私のイエスを返せ!」と歌う。彼の罪も、人類の罪を贖われたイエス以外に誰が担って下さるだろうか。だから、彼もまたイエスに担われた罪人として、「私のイエス」と呼ぶ。主の救いの広大さを思う。無益な悔恨ではないと信じる。
 十字架降架と埋葬で、アリマタヤのヨセフがイエスの亡骸を引き取る場面の64と65曲のレシタティーブとアリアは、殊に身に沁みた。今までは、墓は三日後に復活されて空になるんだから「今やイエスはわが内に、とこしなえに安らかなる休息を得られるのだ。世の思いよ、出でゆけ、イエスに入らしめよ」という歌詞は、そぐわないと思っていた。だがイエスが亡骸となったと言う事、つまり<死人>の一人に数えられ葬られた事が、死に定められた私達にとってどんなに大きな希望であるかを、やっと感じられた。慣れ親しんだ人を見送り、間もなく私自身も、そしてやがて私の子供も死ぬのである。だがイエスは死者の一人となり、かつ復活された。彼を信じる者は、「たとえ死んでも生きる」。彼の復活は、すべての死者と死に定められた生者の希望である。死は、終りではなく、復活の命の入り口となった。だからイエスの死を、この私達の生にの果てにある希望と把握し、生涯大切に胸に抱いて生きよう。そしてこの人生を終えた後、彼の復活に与る希望を持って死のう、そう思うことがができた。
 「マタイ受難曲」のCDは何組も持っている。だが、そう思わせてくれたこのコンサートの記念に、(アマゾンで中古も探さず)会場で購入して帰宅した。
 バッハのカンタータや受難曲などは、ただ音楽だけで鑑賞しようとしても駄目であろう。バッハ個人の信仰が、音楽と歌詞の解釈に籠められている。音楽的美を追究するだけではそれが邪魔に感じられるのではないか。日本では音楽は音楽として追求しようという人が多いし、歌詞に籠められた情感も恋や人生の蹉跌などごく分かりやすいものが多い。日本ではキリスト教信仰はごく少数者のものだから、分かりにくくけいえんされがちであろう。またキリスト者としても、バッハの時代の敬虔主義的信仰を、そのまま受け入れられない場合もある。だから、かつてのように教会の礼拝に取り入れることはできない。しかし、バッハは音楽をイデアとして追求しただけではなく、足を地に据えた具体的な生活の中で人生や信仰を思索し、それを音楽で表現してくれた。そのような一人の人間として、バッハは私達に感動を与える。

 新しい演奏を聴く事ができて本当に良かった。