家庭礼拝で、コリント前書を取り上げている。信徒同士だから、少しずつ聖書を読んでいくのだが9月からは難解な15章(死人の復活)に入り、苦労している。
キリスト信仰は、当時のローマ世界に燎原の火のごとく広まっていったが、肉体を魂の牢獄とする霊肉分離の思想はユダヤ人以外のヘレニズム世界に深く染みついており、ユダヤ教由来の復活思想の受け入れは非常に抵抗が大きかったと思われる。15章は、キリストの復活を認め入信したが、それ以外の人間の復活を認めない復活否定論者に反対して書かれている。
まず、イエス・キリストの復活と顕現なくして、イエスの死が全人類の贖罪の死であることも公示されず、信仰者が永遠の命に生きる希望もない事を説き、次に「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という、復活の身体性ついての問いに対し、
a.「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と、種粒のような<朽ちる、卑しい、弱い>現在の肉体ではなく、<朽ちない、輝かしい、力強い>「霊の体」に復活するとした。これは、復活がラザロのような肉体の蘇生ではなく、全く質の異なる「霊的身体」への変容であることを言っている。
b.そして、「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」という。これは、創世記1章の「神の似姿」であるアダムを、(堕罪前の)人間のイデア(理想)とし、人間は罪を贖われてこの(イデアである)アダムに戻ることが「救済」であるとする、ユダヤ教に一般的だった考え方を否定し、
イエス・キリストの復活は、第一の創造を上回る「創造の完成」としての第二の創造であり、復活者キリストが、霊的身体の人間の始祖(第二のアダム)である、と主張する。
これは、創世記1章の原初の状態の回復は、地上に生きた人間の正義を回復させる「死人の復活」の意義を無視し、キリスト信仰を、結局は、現在生きている人間の内面的充実(この人生を善く生きる)をもって救済とするヘレニズム哲学や道徳に似たものとする誤りを正す為である。
c.最後に、「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです」と、<自然の命の体>と<霊の体>の二つの身体の断絶を結ぶものは「死」ではなく、「神の創造の御力」である事を言っている。
ここまでを一応取り上げて(話をする私もくたびれたが)、娘に感想を聞いたら、「酷く難しくて、あまりピンとこなかった」と言われてしまった。勿論、私の解き明かしの拙さや理解不足の致すところではあるが、これを書いたパウロは学識深いユダヤ教ラビである上に何より「復活者キリスト」が顕現され、召された使徒である。高山の峰が朝日に輝いても、麓は真っ暗であるように、聖書に書かれた事柄を適切に「理解」することは私達一般信徒には、なかなか難しくて当然なのである。
「使徒がこう語っているんだから、お互い、『理解せずして信じ受け入れる』信仰、『聞いて信じる』信仰、に立とうよ」と言って締めくくった。
実際、「一つの肢体が尊ばれれば、皆ともに喜び」とあるのだから、キリストによって結ばれた信仰者の一人が、このような高みに引き上げられた事を、教会の末席を汚す私達も喜び、その教えに従っていくべきであろう。
もう25年以上続けてきた家庭礼拝であるが、あとどれだけつづけていけるだろうか。夫は世を去ったが、残された家族二人で礼拝してきた。願わくば、孫も交えて家族で続けていければと思っている。