inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

一途な人、ヤコブ

 ユダヤ人の直接の先祖ヤコブの話が旧約聖書創世記に出てくる。彼が「長子の特権」である神の祝福を兄からだまし取った話とか、兄の怒りから逃亡中に見た「夢の梯子」とか、恋人ラケルを娶るために14年も彼女の父に仕えた事とか、その後の妻達の子供産み合戦とか、日曜学校の格好の教材であったから、子供の時から良く知っている。
 だが私は、どうしても彼が好きになれなかった。狩猟から疲れて帰宅した兄に、ちょうど作っていた料理をくれと言われて、「長子の特権」と引き換えなら提供すると言うのである。なんて事だろう。疲れて空腹で帰ってきた人に、どうして進んで食事を提供しよとしないんだろう、と子供の私は思った。父にそう言うと、「でもね。彼は〝一途な人〟なんだよ。それ程までに、神の祝福という『長子の特権』が欲しかったんだ」と、言われた。だけど、騙すのは良くない。以来、ずっと好きになれないままであった。
 ところが、家庭礼拝の準備でⅠコリント9章を読んでいる時、気がついた事がある。パウロは19節「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得る為に、自ら進んですべての人の奴隷になった」と書いており、以下「ユダヤ人にはユダヤ人のように」から「弱い人には弱い人のように」まで、相手と同じ立場にあるような<振り>をしてまで、福音を伝えようとした事が述べられている。ここまで読んで「しかし、自分の本音を隠してまで相手に合わせようとするのは<迎合>と紙一重ではないか。こういう態度で近づいて来られたら、私なら警戒して信用しないな」と、つい思ってしまった。だが、23節「福音の為に、わたしはどんな事でもする」を読んだ時、はっとした。
 <振り>と思われようと、<迎合>と思われようと、福音のためにパウロは「どんな事でもする」一途な人である。彼がキリストへの献身に一途であるように(9章23節を読むと、涙が出る)、ヤコブイスラエルも、金銭や家畜と言った現世的財産ではなく、一銭にもならない<神の祝福>という霊的な「長子の特権」に〝一途〟だったのである。何としても神からの祝福を得たい。その為なら彼は、兄を騙すことも、ヤボクの渡しで神と組み討ちすることも「どんな事でもする」。ヤコブは、神の慈しみを求めることに一途だった。
 最近、娯楽小説「人渣反派 自救系統」(さはん)の感想文をブログにアップした。小説に登場する天狼君への竹枝郎の献身、また主人公「洛氷河」の(同性愛だが)師匠沈静秋への愛も、実に一途であり、相手に執着して止まない。これ程までに追いかけ回され、慕い求められたら、相手は負けて愛し返さずにおれない。まして神は、これ程まで祝福を追い求めるヤコブを愛さずにおられるだろうか。
 「幼くて愛を知らない」当時の私は分からなかった。ヤコブは人から好かれる人物ではない。だが恋人ラケルへの愛にも、年をとってから得た息子ヨセフやベニヤミンへの愛にも、実に一途である。そのままでは長子の祝福を得られない次男として生まれ、父や兄、身を寄せた伯父からも、もてはやされなかった(彼は、自分を「不幸せな」人と称している)。ただ、神の憐れみに真剣に恃んだ。彼は、霊的内面的な事に一途な人だったのである。
 パウロはキリストの使徒としてあまりに高く、私自身とは比べようもない。だが、私同様人から好かれず疑り深い人物で、労苦の多い生活者だったヤコブの、神に依り頼む一途さに、私は憧れる。いまさらながら、彼を慕い敬う気持ちになった。

 「私はあなたのほかに、だれを天に持ち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。」(詩73:25)