inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

ルーブル美術館展「愛を描く」

 新美術館にルーブル美術館展「愛を描く」を見に行った。
 中学生の頃、半裸で胸に手を当て、目を天に向け、陶酔する金髪の美女の絵を見た。題名は「悔悛するマグダラのマリア」であった。信仰に目覚め、霊的な感激に陶酔する姿を、なんでエロチックな美女として描くのか、頭に「?=はてなマーク」が浮かんだ事を憶えている。そんな思い出のある絵が、新美術館で開かれるルーブル美術館展に来ていると知り、行ってみた(同じ絵かどうか分からないが、同じ構図である)。展示のテーマは「愛を描く」であり、展示品の大半はエロチックな愛を描いたものである。まずギリシャローマ神話から題材をとったマルスアフロディーテや三美神など、主に美しいヌード画、次にアドニスアフロディーテや、エンディミオン、アポロと糸杉に化するキュバリッソスなど、若さと美が死と隣り合わせであることを示す絵画。続いてキューピッドであるエロスを讃美するコーナーでは、太った裸の子供の姿のエロスが、いたずらの限りを尽くす悪童として描かれていた。エロスは間違えて自分自身をその矢で傷づけてしまい、プシュケーに恋をする羽目に陥る。プシュケーにはじめてキスをするエロスを描いた「アモルの最初のキスを受けるプシュケ」は、育ちきっていない思春期の少年少女の裸体画であり、大変に美しいが、プシュケーの表情は悲しげである。これは、無垢に別れを告げ愛欲の苦しみに入る事を予感するからであろう。少年も少女も性別の見分けがつかない両性具有の姿である。
 続いて「楽しき恋の杯」を味わい尽くす男女の絵が続く、いわゆる泰西画としてゴブラン織りなどに用いられている題材である。宮廷の美女達の水浴を、目を飛び出すようにして覗き見する男性など、笑ってしまう。イスラムの魔女に骨抜きにされる十字軍の騎士など、誘惑されるのも悪くないと思わせた。
 だが。評判の「かんぬき」と題する絵は、こんなきわどい場面の絵画をどこに飾るのか、注文者の意図を量りかねた。聖書から題材をとった聖画が、これと対になっているそうである。性的快楽の対極として、信仰が考えられているのだろうが、それでは信仰が人間的喜びを否定するようではないか。十字架降ろしの絵や何枚かの聖人殉教図などは、エロチックな喜びの引き立て役のように展示されていて、反発を覚えた。だがその一枚が、お目当ての「悔悛するマグダラのマリア」であった。
 こう連続して若さと美を謳歌するエロチックな絵を見てくると、歓楽を尽くして哀愁生ずるというか、しどけなく金髪を半裸の胸に垂らした美女が、無常を象徴する髑髏を前に、目を天に向けて悔悛する姿は、それなりに理解できた。現世の快楽に溺れてしまったからこそ、その虚しさを深く悔悛するのであろう。痩せこけた苦行僧の姿では、こうまで深く具体的な悔悛の情を表現することができない。
 続いてダンテの前に現れたフランチェスカとパオロの亡霊の絵があった。絡み合った若い男女の亡霊が、地獄の風に吹き流され、バージルに案内されてきたダンテの前に現れる。男女とも青春の美に溢れた裸体で描かれているが、パオロの胸には刺し殺された傷がのこり、一緒に死んだフランチェスカに抱きしめられながら慟哭している。彼を抱きしめるフランチェスカも、虚ろな絶望の表情を浮かべている。その哀れさに、ダンテは絶叫している。
 宮廷画に続いて市民階級の絵画が展示されている。「とりもち女」は、娼婦を世話する老婆と若い兵士の顔を描いている。若者は約束される快楽に気をそそられる様子であるが、恥じらって少し赤面しているのが初々しい。その隣には、精力剤である牡蛎を置いたテーブルの前で、たくましい兵士が若い女に金を渡している。娼婦に金を払う場面である。うつむいて金を受け取る若い女は美しいが、その成れの果ては醜い「とりもち女」の老婆であろう。男の大きさに比して、女が小さく描かれている。男の金に依存する女の卑下を示しているのだろう。娼婦ではなくとも、経済力がないなど社会的に独立できないため、愛からではなく永久就職のように結婚する女もあった事を思いだし、嫌な気がした。続いて、眠る幼児イエスを抱く聖母や、幼い子供にまとわりつかれた幸せそうな夫婦の絵などもあったが、あまり心に残る印象的なものはなかった。
 人生において、男女の愛は喜びであり、また悲しみと苦しみの根源でもある。とってつけたように、それと対極にある神への愛を描こうとしても無理がある。テーマとする「愛」の概念が広すぎて失敗しているように感じて会場を去った。