inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

結婚狂詩曲(原題「囲城」)感想-2

(2)中国人女性の愛の表現
 まだ結婚もしない娘時代に「紅楼夢」を読んでいて気になる事があった。女主人公の一人は、天上の住民であった主人公に水を注いで貰った天の草の精であり、主人公が罪を得て下界(人間界)に落とされる際に、一緒に下界に転生し、女になって彼のために泣くことで、注いで貰った水の恩を報いようとするのである。そして病弱で主人公の配偶者としてふさわしくないとされて、その事でしょっちゅ泣いて天上での「恩」を返す。
 男への愛の故に泣き悲しむことが、なんで「恩を返す」ことになるのか、私にはさっぱり分からなかった。
 また、「天官賜福」に登場する女の鬼「宣姫」は、自分を捨てた恋人「裴名将軍」が自分に逢いに来ることを期待して、地上で花嫁を食い殺す騒動を起こす。男を怨んで騒ぎを起こすことが、なんで愛情表現になるのか、どうしても理解できない。むしろ効果としては常識的に考えて逆ではないかと思う。
 これらについて、小説「結婚狂詩曲」で主人公をつり上げたミス孫の描写を読んで、なるほどと思った。中国の、男の女に対する愛情とは、保護し守りたくなる感情であり、反対に女の愛情とは、男に細やかな世話を尽くし、男の保護と慰めを期待することにあるようだ。だから男に保護され慰められない事に泣いたり怨んだりすることが、すなわち愛情表現になるのである。
 根強い氏族社会の中で中国女性は男に抑圧され続けてきた。頭のいい女は、上記の事情をわきまえ、巧みに男の保護意識を起こさせ、気を惹こうとする。フランスかぶれのミス蘇のように、自分の美点を見せつけて気を惹こうとしても駄目なのである。西洋的精神と中国古典に精通する知識人鴻漸も、手もなく昔ながらのミス孫の手練手管に引っかかってしまう。中国式の、何が何でもどんな手を使っても(彼女は自分達が恋仲だという噂が両親に届いて、その確認の手紙まで来たと嘘をついている)相手を攻め落とす意欲と手口はすごいものがある。だが、彼女は彼を愛しており、本気で彼を細やかに世話し、彼に気に入られたいと願っている。結婚後の彼女の人間関係についての敏感さと実際的処理の巧みさは、年上であり知的には上である夫鴻漸を遙かに凌いでいる。
 二人が結婚の挨拶に趙辛楣に会にいくと、まずいことに鴻漸をつり上げようとして失敗したミス蘇(その時点で、太っちょ詩人の妻となっている)と鉢合わせしてしまう。ミス孫は夫と色々あった相手に好奇心が動き、「ちょっとご挨拶だけでも」という。気まずいから逃げようとした鴻漸であるが、妻がそう言うし自分も興味があったのであえてミス蘇と再会する。(元の)ミス蘇は、鴻漸への面当てもあり、わざと「(鴻漸の)奥さんって、あの両替屋(周頭取)が世話した人?」と聞こえよがしに趙辛楣に尋ねる。「お金目当てに結婚したのね」と蔑み、鴻漸を貶めるためである。「違うよ、(疎開大学への)船旅で出会った仲だ」と答えられると、今度はミス孫に「ではどちらに留学された帰路の旅?」と質問して、外国留学ではなく国内大学を出ただけだとわかると「アラ、そう」といったきり、後は目もくれない。私を選ばないで、こんなつまらない女をつかんだのね、と鴻漸に意趣返しをしたのである。鴻漸は悪いのは自分だという意識があるから何も言い返さない。
 ミス孫は帰宅して二人きりになると、これを怨んで泣いたりミス蘇にまだ気があるのね、と嫉妬したりする。彼を愛しているからである。だけど、彼をゲットしたのは自分ではないか。私ならミス蘇の態度にかえって優越感を覚えると思うが、典型的中国女としては怨み泣きするのが愛情表現なのである。(夫としては煩わしいのではないか)。
 「天官賜福」主人公謝憐に志願して手伝いにくる二人の若い神官(実は、彼の元側近であり、今は将軍となった二人の上位神官達である)のうち一人は、謝憐に皮肉を連発し嘲るように白目をむく癖がある。不快な態度と感じるが、これが「怨みつらみを言う」という中国伝統的女性の愛情表現だということが理解できた。「ツンデレ」とでも言うのだろうか。
 だが、中国社会も変化しつつある。封建的氏族社会制度を色濃く残しながら、鬼王花城の謝憐への愛に見られるように、相手の弱さも欠点もよく理解しつつ相手に献身するという、言わばアガペーに近いような愛の形が、大衆的娯楽作品にまで現れてきている。こうした愛は、個としての自我の発達がなければあり得ない現象である。封建制全体主義に苦しみつつ、中国民衆が世界的水準の意識を持って前向きに生きていることが分かる。島国日本にいると、(私だけかも知れないが)つい視野が狭くなりがちである。だが、隣国の大国である中国(台湾を含む)の人々に、改めて尊敬および連帯の意識を感じた。