inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

イデアへの愛、中国ドラマ「君、花海棠の紅にあらず」感想

 テレビは殆ど見ない私だが、代わりに娯楽としてアマゾンプライムビデオを見る。レンタルビデオと違い、返却する必要がなく試しに少し見て面白そうなら続けて見ることもできるし、そうでなければ止めて別の作品を覗くこともできる。昔、本屋でまず試し読みし、面白そうなら買い、そうでなければ別の本を物色した感覚である。現在は町の本屋が少なくなり、そうした買い方はなくなってしまった。
 原作はBL小説のようだが、映像化されるにあたりブロマンス仕立てになっている。BLにありがちなエロい描写はなく、安心して見ることがができた。

 まず、主人公二人が男として本当に美しい。天才京劇役者商細蕊と、北平(中華民国当時の北京)一の豪商・程鳳台だが、京劇役者は女形なので楊貴妃などの舞台姿が美しいのは当然として、豪商・程鳳台を演じる黄暁明という俳優も、若者ではない大人の男性の美しさを十分に表現していて、この二人を見るのが目の楽しみだった。
 程鳳台は富裕層に属する名家出身でイギリスに留学し文学や演劇を専攻していた。ところが父の死により実家が没落し、帰国して一家を背負う羽目になってしまう。姉と妹を養い家業を建て直す為に、持参金目的で富豪の娘と結婚せざるをえなかった。持参金を活用し、かつての文学青年は今や軍閥馬賊と取引し、政治的に混乱した時期に逞しく稼ぐ実業家となっている。取引先に招かれて京劇の劇場を訪れたが、彼の教養は西洋風であり全く京劇に興味はなかった。だが、虞美人を演じる役者の演技に引き込まれてしまう。
 投げ銭代わりに投げた指輪が役者の顔に当たり、そのお詫びに楽屋を訪れたことが縁のはじめである。そしてこの役者商細蕊が、城門の上で虞美人を歌い、その歌声で戦闘も止まったという伝説を聞く。戦闘を止めた将軍に専属役者になれと言われ、従うか舞台で演じることを選ぶか銃を突きつけられたが、命よりも舞台を選んだことも知るのである。
 もう一人の主人公商細蕊は、誰よりも慕った姉弟子が自分を捨て男と結婚したことがどうしても許せない。程鳳台の長男の誕生祝いの席で歌う依頼を受けていたのに、その席にかつての姉弟子が出席しているのを見て、お祝いの歌の代わりに恨み節を歌って祝宴を台無しにしてしまう。天才肌の芸術家は実人生では子供のようなものだと理解をしめした程鳳台は、彼を怒らずむしろ現実と理想は異なることを諭そうとドライブに連れ出す。だが、商細蕊は「彼女は、弟弟子の自分が世界中の誰よりも大切だと誓ったんです。誓言を破るとは、人でなしだ」という。だが、誓いを守れない場合もあると諭そうとすると、「菊花の契り」では牢獄に囚われても自殺して霊魂となっても逢いに来たという演目を例に取り「誓言は生死を超えて果たさねばならないのです」と真剣に言うのである。彼にとっては、演じる世界こそが実在するイデアであり、現実の生活はフィロソフィー(イデアを愛するエロースの世界)であることを程鳳台は理解する。
 程鳳台に取って、文学や演劇は現実から遙かに遠いイデアであって、実人生では憧れつつも断念せざるを得ないものだった。しかし、役者である商細蕊は、彼が思い描く役柄のイデアを舞台で現実化するのである。実際、出演直前の彼を楽屋に訪ねた程鳳台は、眼前に出現した楊貴妃の美と威厳に呆然とする。商細蕊の舞台には、役柄の人物が顕現するのである。
 いかにも男性的な恋(エロース)ではないか。ブラトンの「饗宴」で、愛=エロースとは、自分の欠けたものを得ようとする「力」とソクラテスは述べている。水に映った月影を捉えようとするように、手が届かないところにあるイデアを追い続ける力=エロースを程鳳台は商細蕊に見たのである。
 一方、商細蕊も彼がそのようなイデアを追い求める存在であることを、程鳳台が理解することが分かる。程鳳台こそが、自分の知音(真の友、士は己を知る者の為に死す、の言葉にあるような「己を知る」相手)である。
 その後、時代の動乱と共に色々な事件が起こり、程鳳台は国外脱出せざるを得なくなる。だが、二人にとってどこにいようとも、お互いが唯一無二の大切な存在となるのである。
 ドラマの展開の中に、共産主義の理想に燃える人物達が登場する。実現した「共産主義を理想とする社会」が如何なるものかを知っている私達には、彼らにもまたイデアを追う猿猴捉月の悲哀を覚えてしまうが、久々にプラトニックラブの存在を想起させるドラマであった。