inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

「君、花海棠の紅にあらず」感想-2

 先日、あまりにも簡単に感想を記したので続きを書きたくなった。
 天才的京劇役者商細蕊は、その才能に対するあらゆる梨園の妬みや意地悪に打ち勝ち、北平第一の役者としての揺るぎない人気と地位を確立していく。機会を得て、好敵手と南京を訪れる、憧れの崑曲発祥の地だからである。そこでも素晴らしい歌唱で玄人筋をうならせるが、崑曲はすでに時代遅れで人気を失いつつあることを知る。現在人気絶頂の京劇も、やがては時代遅れになり廃れていくことに気がつく。絶対の実在と思い込んでいた京劇の美のイデアは、儚い大衆の人気に支えられている。水面に映る月影のように、風に水が波立てば砕け散って行く事を悟る。そして、それを演じる人間達のなんと儚いことか。運命の蹉跌に苦しみ、アヘンや病に屈し、河原乞食と蔑まれ、老いて寂しく世を去って行く。だが、そうであればこそ、イデアを追い続ける後継者を育て、失われゆく技を伝承していかねばと決意するのである。
  そこにパトロンであり知音である程鳳台が重傷を負い、意識不明の危篤状態であるとの知らせが入る。その枕元に駆けつけ、程家の家族に嫌がられてもどうしても離れようとはしない。もはや京劇もイデアもない。今、生きている自分と程鳳台が出会ったことのかけがえのなさ、永遠と思ったこの結びつきが、一方の死によって消えていこうとしている現実に直面する。真に愛しいのは、イデアではない。運命に翻弄され、人生に苦しみつつ、生きようとする人間であり、彼にとっては程鳳台であった。夜を徹し声をからしながら、去ろうとする程鳳台の魂を呼び続け、ついに程鳳台の意識が戻る。彼を家族に任せ、去ろうとした時、彼を捨てた姉弟子に再会する。人間の弱さ儚さを痛感した彼は、もはや誓言を破った彼女を咎めない。お互いが出会い、愛し合えた事を最上の幸いとして認め受け入れるのである。
 姉弟子とも、知音である程鳳台とも、別れは必ずくる。しかし、短く儚い人生において、彼らに出会った事が、自分の生の証であることを彼は悟ったのである。
 価値(イデア)への愛は、確かに存在する。しかし、真に人間を感動させるのは、自分の限界(才能や限りある命)の中にあって、同じく限界をもった他者に共感し結びつく、生きた人間同士の愛の交わりであろう。
 ドラマの登場人物のように、人に優れた才能も業績もない私であるけれども、人生において触れ合った数々の懐かしい人々を思い出す。彼らは既に世を去った者もあり、または交際の途絶えた者もいる。だが、彼らと出会えた事が、私が生きた証なのである。一生は短い。しかし、愛はいつまでも絶えることがない、と私は主にあって信じている。