inner-castle’s blog

読書、キリスト教信仰など内面世界探検記

プラトン「パイドロス」

 実は、これは初めて読む本ではなく、遠い若い日に読んだ記憶が残っていたものである。ところが「君、花海棠の紅にあらず」のドラマで、程鳳台が商細蕊の舞台に魅せられ、また祝宴を台無しにした彼を叱ろうとして逆に説得されてしまう体験をし、商細蕊に惹かれ恋に落ちる過程を観るうちに、おもわず「パイドロス」の恋の譬え話(ミュートス)を思い出したのである。
 私は実際的な人間だから、魂(プシュケー)がかつて翼を持ち、有翼の馬を駆って神々の行列に伴い、真実在(イデア)を垣間見ていたとか、翼を失い物質である肉体の中に墜落したとかいう空想には、勿論ついて行けない。だが、美しい人(美少年)を観るとき、感覚に訴える美から、かつて観想していた美のイデアを想起し、失われた翼を生じる器官が疼き、耐え難い苦しみと甘美な喜びをの双方を感じ、美しい人を追いかけずにいられなくなる、といった描写は記憶に残っていた。今回、さっと読み直してみて、エロースとはこの翼であり、イデアを追い求めて魂を駆け上がらせる力とする説が心に残った。
 また、イデアは互いにつながり合っており、美のイデアを想起すると、真理(知)と善のイデアの存在をも想起するようになる、との説も成る程と思わせる。そして、大量の愛の情念の流れが恋される者に注がれる結果、恋される者も充満した愛の情念を相手(恋する者)に反射して注ぎ返し、互いに愛し合うようになるというのも、現実的な恋の描写であろう。
 程鳳台はかつて文芸や演劇を追求していた。だが実生活の必要から心ならずも、激しい商いの生業に従事している。言わば翼を失い墜落した状況である。しかし、商細蕊の舞台に美のイデアを追求して駆け上がろうとする翼(エロース)を感じる。また、誓言は生死を超えて果たすべきとする商細蕊の狂気じみた真剣さに、彼のイデア追求が単に美だけにとどまらず真と善を含めたイデア全体の追求であることを感得する。程鳳台の「翼を生じる器官」が疼き、商細蕊の狂気に付き合い共に舞台を追求するとき、こよなく甘美な喜びを感じるのである。彼の愛の情念は商細蕊に流れ込み、反射される。商細蕊は言う「他の人は、私の演技や芸を褒めるだけだ。だが彼(程鳳台)は、私という存在を理解してくれる。私の知音だ」。
 その先のドラマの展開は、プラトンが描写するような、恋する者される者、両者共に幸福な生を送るという理想的なものにはならない。だが、恋の始まりはプラトンの描写を思い出させた。
 しかし、恋の描写には胸がときめいても、こうした恋が可能であるには一定の条件がある。即ち恋されるほどの美なり才能があり、しかも自由に振る舞える身分や余暇がなければならない。天才芸術家(役者)と、教養ある富豪だから成り立つ「価値愛」であり、教育もなく家事に追われる女性や労働に携わる貧乏人や才能のない者は相手にされないのである。

 これは、この本後半の弁論術(対話術)についても同様で、弁論を揮う場や機会を持ち得るほどの人物でなければ、こうした技術に関心を持てないだろう。しかし、一般的な論理のたてかたや説得の方法は成る程と思わせる。また、書かれた言葉(文章)に対し、直接相手に応じて語りかける対話を重視する点が心に残った。引用される詩や人名など、註を参照しなければならないのは煩わしく、また言葉あそびについていくのもやっかいだが、しばらくぶりに頭の体操をした気になる。

 哲学の勉強をするつもりはなくとも、晴れた夏の日に、静かな郊外の木陰で、蝉の声をききながら(蝉が人間達についてミューズの神に言いつけ口をするというのも面白かった)、恋や弁論術について討論し語り合うソクラテスおじさんとパイドロス青年の描写は、思い浮かべるだに心楽しい情景である。こういう罪のない暇つぶしは、いくらクサンチッペにガミガミ叱られようと、ソクラテスとしては止められなかったに違いない。短いけれど、ふだんは殆ど考えない人間精神について考えさせられ、楽しめる本であった。